アンストッパブル(トニー・スコット)

 ただひたすら、無人で暴走する機関車を止めるだけという、トニー・スコット作品の中でも抜きん出てシンプル、それゆえ最高の娯楽作品に仕上がっているこの作品について、付け加えるべきことは何もない。
 ただ、浜岡原発停止問題を前にして、この実話に基づくパニック映画の王道が、一瞬妙に生々しく映ったことを書き留めておきたいだけだ。

 たとえば、鉄道会社の幹部たちの決断が、コストに左右され、一転二転するありさまはどうか。人為的ミスにより暴走をはじめた機関車777は、とうに回避不能の状態に入ってしまっているにもかかわらず、彼らはコストを考えるあまり、なかなか脱線させて停止させる策に踏み切れない。

 実際に事故が起こる前から事故が起こった場合の損害をコストに含んでおくほど、資本はお人よしではない。ようやく彼らが決断するのは、機関車が農地を抜けて、市街地に突入した後である。もちろん、劇薬を積んだ貨車が市街地で爆発してしまえば、その損害賠償額は脱線による損害の比ではないからだ。

 だが、今リアルなのは、リスクとコストとを天秤にかけ、一瞬一瞬の状況に応じて決定がころころ変わる、この種のありきたりな資本の論理ではない。ベテラン機関士のデンゼル・ワシントンが、長年にわたる現場の経験知に基づいて度々口にするように、何十両にもわたって貨物をつないだこの暴走機関車が、はじめから「脱線は失敗する」と見なされていたことである。

 すなわち、今回のように、勇敢で優秀な機関士たちが奇跡的に止めでもしないかぎり、機関車777は、アプリオリに事故を起こしてしまっていたということだ。無謀にもバックで機関車を追いかけるデンゼルとクリス・パインのみならず、その前に機関車に挑んであえなく撃沈した、これまたベテランのデビッド・ウォーショフスキーもまた、ずっと「後方」を見ての運転を強いられていた。

 テクノロジーの進化と、それにともなう事故のリスクは、とうに人類のコントロール可能領域を超え、はるか前方を、常にすでに「暴走」してしまっている。われわれはそれを、「後方」を見つめるようにして、まだコントロール可能であるかのように倒錯しているだけだ。現に、無謀にも機関車を抑え込もうとする機関士たちを、人々は何の確信も持てないまま、祈るような目で見つめているほかはない。

 事故の思想家、ポール・ヴィリリオは、「列車を発明することは、脱線事故を発明することだ」と言った。テクノロジーの発明、進化は、原罪的な事故を宿命のように背負いこむことであり、原発事故や金融危機も含めて、今や世界は「全面的事故」のステージに突入した、と。

 もちろん、ヴィリリオは、いたずらに千年王国説のような危機論をうたう思想家ではない。だが、地球規模の全面的事故という視座そのものが、ある種終末論的な思考を招き寄せてしまうことは否定できないだろう。そして、ヴィリリオによれば、今都市を覆っている、この全面的事故への不安=期待(事故や災害における「不安」と「期待」は、同じコインの表裏の感情である)は、20世紀的な革命と大戦に次ぐ、第三の「期待の地平」を形成しつつあるというのだ。

「革命」という概念はそのイデオロギー的豊穣さを蕩尽してしまっていたのであり、当時残っていたのは、もはやただ漠然とした不安、名も無き大惨事の期待だけだった(『アクシデント 事故と文明』)。


 革命なき大戦なき、全面的事故に覆われた世紀――。したがって、ヴィリリオは、21世紀的な市民=テレビ視聴者を統治するには、この全面的事故の「期待の地平」に即した「終末論政党」が「喫緊時となる」とまで言うのである。

 それはともかく、『アンストッパブル』に戻ろう。暴走機関車に立ち向かう二人の機関士の雄姿が、全米中にTV中継され、地域住民は避難勧告を受けながらも、彼らの活躍に熱狂的に一喜一憂する。その姿は、まさにヴィリリオのいう、不安と背中合わせの期待の「地平」が、延々と繰り広げられる災害ならぬ事故報道によって、人々の間に形成されていく姿そのものである。

 そもそも、すでに前作『サヴウェイ123』 http://d.hatena.ne.jp/knakajii/searchdiary?word=%A5%B5%A5%D6%A5%A6%A5%A7%A5%A4&.submit=%B8%A1%BA%F7&type=detail は、ヴィリリオが全面的事故に数える金融パニックを背景とした作品だった。アクション映画やスパイ映画からパニック映画へ。このトニー・スコットの移動は、冷戦崩壊以降、革命や大戦を「蕩尽」してしまったアメリカ(世界)が、何を「敵」として「期待の地平」を形成し、人々を統治していくかという、その『エネミー・オブ・アメリカ』の移行そのものを示している。

 今作の、嘘のようにあっけらかんとした楽天的な結末には、だが、それと背中合わせの、不安と期待の「終末論」が忍びこんでいるのだ。

中島一夫