全共闘、三島由紀夫、村上一郎

 奥野健男は、東大全共闘三島由紀夫、そして村上一郎の「三者」関係について、次のように述べている。

 

三島由紀夫全共闘の過激派が革命的暴力行動にいっせいに蜂起するのを望んでいた。それ故に昭和四十四年六月、東大駒場まで行って全共闘の学生たちと討論会を行い挑発している。もし学生が革命をめざし蜂起したら、その時こそ楯の会を率いてその行動を阻止し、天皇を守り、先頭に立ち華々しく斬り死にしたいと真剣に願っていた。あるいは西郷南洲のように敵を前にして割腹して死のうと願っていたのかも知れぬ。

 その三島の烈しい渇仰は、立場が異なるとは言え、同じく烈しい魂の持主であった文学者村上一郎に伝わるのだろうか。昭和四十五年六月十五日、六〇年安保の中で樺美智子が殺された記念日、旧海軍軍服を着た村上一郎は皇居前の犠牲の地に行き、日本刀のさやを払い抜刀の礼で樺美智子の霊を慰め、その足でぼくの家に来た。家の近所に刀研ぎの名人がいるから帰りにそこで研いでもらうのだと言った。なぜ研ぐのかとぼくが聞くと、全共闘蜂起の時、その先頭に立って、阻止する三島由紀夫と真剣勝負し斬り殺すためだ。いよいよその時が切迫しているからだと目を据えて語った。(奥野健男三島由紀夫伝説』)

 

 以前は、こうしたロマンティシズムには、とてもついていけないとしか思わなかったが、最近はこのロマン主義は「主権」というものにこだわっていたからではないか、と考えるようになった。ある意味で、彼ら(だけ)は本気だったのだ、と。

 

 このあたりは複雑に絡みあっているので、ここで十分に問題を展開することはできない。ただ一つだけ指摘すれば、三島が二・二六事件に自らの「道義的革命」のモデルを見ていたのに対して、村上は五・一五事件の方に思想的な可能性を見出していた。村上は、二・二六へのアンチテーゼとして五・一五を見ていたのであり、その対立が奥野の言うような両者の「真剣勝負」の中核をなしていたのである。

 

五・一五事件の人びと、少なくも橘は、北一輝のアンチテーゼとして己れを考えている。……むしろ五・一五事件二・二六事件のような北一輝的な「改造」を防ぐものだった。(村上一郎「私抄“二・二六事件”――「革正」か「革命」か?――」)

 

 一九六九年、村上は、桶谷秀昭とともに、水戸の愛郷塾の橘孝三郎を訪ね、五・一五事件の真相を問うた。そのとき、橘は、北一輝の『日本改造法案大綱』を見て、「これは大変だ、こんなことになったら日本は終りだと思って立ち上がった」と述べたという。それは、『法案』の主張する「天皇の名をもってする革命」が、「天皇制を逆手にとって天皇制を打倒する革命」であることを嗅ぎ取ったからだろう、と。実際、北は、天皇制を否定していた。

 だからこそ、五・一五は「革正」や「廓清」という語を使い、来るべき「革命」=二・二六を未然に防ごうと行動したのであり、村上はそこに五・一五の比類なき倫理の高さを見出すのだ。

 

 村上が、三島の「革命」に批判的に対峙・介入するために、二・二六のアンチテーゼとしての五・一五を突きつけようとしたのは見やすい。ポイントは天皇であり、すなわち「主権」(天皇大権、統帥権)の問題だった。

 

天皇をどう考えるかは、天皇制という機構の問題としてではなく――それはどうしてもからんでくるが、――二・二六事件なり五・一五事件なりを規定する上に大切であるのみならず、今日三島由紀夫的な考え方を批判する上にも眼目となるところである。三島が『文化防衛論』で、天皇自衛隊の儀杖をうけるのが至当であると述べたのに対し、わたしは、それでは天皇に再び大元帥の服を着せるのかと訊した。それに対して三島は、いやそうではない、天皇は衣冠束帯で儀杖を受けるのであり、天皇という職は国民の献げるすべてを受け容れるのが本義であるから、他のものは受けて自衛隊の儀杖のみを受けないというのはおかしいのであると答えた。ここには三島なりの筋がある。しかしそれならもっと徹底して、天皇を伊勢かどこかへやってしまい、もっと貧乏させて、国民のためを思いながら寒夜に御衣をぬいで歌を作るといった天皇像を思い描けないのは、やはり三島の近代的なところであろう。近代的といってわるければ、二・二六事件的であって、五・一五事件的でないところである。三島は、神風連と結びつけて二・二六事件を評価することを強調する。しかし、五・一五事件はそこまで買ってはいない。(村上一郎「私抄“二・二六事件”」)

 

 知られるように、三島は、二・二六事件の可能性の中心に「大御心に待つ」という精神を見た。そこに、あらゆる制度を全否定する当為(ゾルレン)としての永久革命を見たのである。

 

あらゆる制度は、否定形においてはじめて純粋性を得る。そして純粋性のダイナミクスとは、つねに永久革命の形態をとる。すなわち日本天皇制における永久革命的性格を担うものこそ、天皇信仰なのである。しかしこの革命は、道義的革命の限定を負うことによって、つねに敗北をくりかえす。二・二六はその典型的表現である。(三島由紀夫「『道義的革命』の論理」)

 

 「永久革命」としての「天皇信仰」。三島の信仰する「天皇」が、またその「大御心」が、何ら実際の天皇とは関係のない抽象性であることが重要だろう。それは現状否定のシンボルであり、ほとんど不可能性としてあった(ゆえに、民主主義の保守的機能を果たす現状肯定のシンボルと見る林房雄と、この点では鋭く対立した)。と同時に、だが三島においては、「待つ」ことによって「それ」は現れる「べき」(ゾルレン)なのである。だから三島は、ベケットの『ゴドーを待ちながら』についても、「僕はゴドーが来ないというのはけしからんと思う。それは二十世紀文学の悪い一面だよ」と言った(安部公房との対談「二十世紀の文学」)。

 一方村上には、二・二六の青年将校らの、そして三島の「大御心を待つ」の精神が、天皇に頼って天皇制を打倒しようとするものにしか見えなかった。統帥権を否定しながら天皇の大権としての統帥権を疑わないのは、「最大の矛盾」ではないか、と。

 

二・二六事件の蹶起将校が、反軍閥・反幕僚的な思想をもちながら、統帥権に対して何の疑いをもさしはさまず、これを擁護しようとしたことは、最大の矛盾であった。彼らは彼らの忠誠心から、統帥権を真に天皇自身のものにしようと考えていたのであろう。が、天皇直率の軍というような姿は、本来あり得なかったのである。(村上一郎「私抄“二・二六事件”」)

 

 やはり、村上は、三島の天皇を「存在」(ザイン)のレベルで捉えることから逃れられていないように見える。両者の対立を見ていると、まるで「右」の三島が天皇制を否定し、「左」の村上がそれを防ごうとしているようにしか見えないのである。それが、「例外状況」としての68年ということだったのだろう。

 

 むろん、三島や村上が構えていたようには、全共闘の一斉蜂起は起こらなかった。彼らの自刃は「遅れて」行われるほかなかった。だが、逆に言えば、彼らの自刃の「本質」は、全共闘を前にした時にこそたち現れていたのだ。

 

中島一夫