ありきたりの映画(ジャン=リュック・ゴダール+ジガ・ヴェルトフ集団)

 今さらゴダールを見て、革命でもないことなどよく分かっている。
だが、「さらば〝映画〟よ。これから〝政治〟の時代を始める」という誘い文句につられて、ついついシネ・リーブルの「ゴダール特集」に通ってしまった。

 今作ははじめて見たが、草っ原で学生と労働者が、ただひたすら「68年5月」についてエンドレスに議論している様子を映し出すこの作品が、「ありきたりの(ありふれた)映画」と呼ばれることに、まずはめまいをおぼえる。

 おそらく、「ありきたり」とは、ここには物語の起伏もなく、刺激的な映像もない、商業映画に決別した「ありきたり」の映像があるだけだという意味だろう。だが、今となっては、ごく普通の学生や労働者が、延々と革命や運動について言葉を交わす様子など、「ありきたり」どころかほとんどあり得ない光景だ。それが「ありきたり」だった「68年」から「遠く離れて」しまったことを、ただただ感じるばかりだ。

 西川長夫は、「五月革命を理解するために何か一つ選ばなければならないとすれば、私は六八年関係の山をなす書物の中から一冊選ぶよりは」、むしろゴダールの『中国女』を選びたいと言っている(『パリ五月革命私論』)。「五月革命の発端をカルチェ・ラタンのソルボンヌでなく郊外のナンテールで捉えたゴダールはさすがだと思う」と。

 なるほど、フランスの「68年5月」を、ほとんどその渦中でリアルに経験した者にとっては、おそらくそのとおりなのだろう。だが、「68年5月」を経験していない身からすると、『中国女』や『東風』、『ウラジミールとローザ』といった劇仕立ての作品は、どこかフィクションに傾きすぎているように思えてならない。

 むしろ、この『ありきたりの映画』こそ、「68年5月」のリアルとはいえないか。それは、リアリズムで撮られているからではない。そこで交わされる議論が、「学生と労働者はいかにしてつながり得るか」というテーマをめぐっているからである。

 フランスの「68年5月」は、決して単なる学生運動ではなかった。そこには、先の西川長夫も活写しているように、まぎれもなく学生と労働者の連帯があった。

「68年」を学生運動や若者の運動と見なすのは、いい加減やめるべきだろう。クリスティン・ロスも言うように、「「学生」「若者」や「世代」というカテゴリーは、分別可能で囲い込み可能な社会的位置、運動の定義可能な居住地を提供することで、政治を社会学へと溶解してしまう。しかし、「六八年」は、社会的位置からの逃走にほかならなかったのである」。また、当時の数々の小冊子には「もはや学生の問題など存在しない」とか、「学生は有効な概念ではない……学生という偽階級に閉じこもらないようにせよ……」という宣言が多々見られたという(「同意は何を消去したか」『悍』創刊号)。

 では、学生と労働者をつないだものは何だったのか。ロスは、それを「ベトナム」に見出している。「それは「ベトナムという他者」という歴史的射程を孕んだ主体/概念であった」。「つまりそれは、地理的に距離のあるベトナムとフランスを、あるいは別種の距離のある労働者と学生/知識人を、想像的/創造的飛躍によって架橋する試みである」(内野儀による上記論文「解題」)。

 ロスは、その理論的背景には、フランソワ・マスペロという出版人の活躍があったと論じている。だが、この「ベトナムから遠く離れて」という「距離」と、それに「架橋する試み」が、またゴダールのものでもあったことは言うまでもない。ゴダールは『ベトナムから遠く離れて』の自身が手掛けた章「カメラ・アイ」において、ほぼ同時期に撮られた『中国女』の撮影風景を挿入している。それが、ベトナムとフランスの「距離」と、労働者と学生/知識人の「距離」の構造的同一性を捉えたうえで、両者に「架橋する試み」だったことは、もはや明らかだろう。

 映画は、「すべては美学と経済学の問題である」と終わる。これは、マルクス的に言い直せば「すべては使用価値と交換価値の問題である」ということだ。たとえば、現在の認知労働は、IT関係はもちろん、音楽からお笑いまで、実際に商品として売れることで、経済学的な交換価値を実現していなくとも、ネットにアップされ適当にアクセスがあれば、美学的な使用価値だけで「価値」を実現したかのような幻想をふりまいている。認知労働においては、「美学」が「経済学」を凌駕し飲み尽くす。まさに「すべては美学と経済学」両者の「問題である」ことを見失うべきではないのだ。

 したがって、画面に映し出される学生と労働者の飽くなき議論を、間違っても「コミュニケーション」などという認知労働的な言葉で語ってはならない。サルトルが言ったように、「68年」が目論んでいたのは、言論(交渉、対話、同意…)の獲得ではなく、断じてその放棄(ストライキ)だったからである。

中島一夫