さらば、愛の言葉よ(ジャン=リュック・ゴダール) その1

 原題は「ADIEU AU LANGAGE」だから「さらば言葉よ」。前作『ゴダール・ソシアリスム』同様、ストレートなタイトルだ。言葉という表象=代行システムよ「さらば」。

 むろん、われわれは、言葉という表象から逃れることができない。Adieuが、スイスでは「こんにちは」という意味もあるというその両義性は、ついに言葉が表象=代行でしかないこと(ゆえに「さらば」)と、にもかかわらず、なお不可避的であること(「こんにちは」)の両義性をそのまま示していよう。

 今作で3Dを採用したのも、一言で言えば、われわれが言葉同様、自明視している「視覚」を解体したかったからだろう。本作の3Dは、われわれの視覚にまったく親和的ではない。左目に見える映像と、右目に見えるそれとが分裂しており、その映像は、決してわれわれの通常の視覚を表象=代行しない。

 極度に「見づらい」映像を見る中に(おそらく、69分の上映時間が限界だろう)、われわれの「通常の」視覚が、いかに西洋的=遠近法的な制度に「従って」おり(檻の中の女性が「男」に「あなたに従う」と言われるシーン)、しかもそれが鏡像で、実は左右さかさまの映像であるか(「逆なのは左右であり、なぜか上下ではない」というシーン)が暴き立てられる。盛んに犬が登場し、その都度人間の視覚の「外部」を想起させてやまないのも、同じ理由だろう。

 むろん、堀潤之も言うように(「ゴダールのデジタル革命と動物のまなざし」『ユリイカ』2015年1月)、この犬は、「ゴダールの未実現のシナリオのひとつである『動物たち』――社会主義者たちが握った権力が、女性、子供、動物たちによって順番に打倒されるという寓話――の存在」という文脈で捉えることができる。実際、冒頭付近に、ラーゲリの囚人がソ連社会主義への信頼を決定的に失墜させたと言ってよい、ソルジェニーツィン収容所群島』への言及もある。

 またその犬は、作中に出てくる「一七八九年の二〇〇年後に」制定されたという「世界動物権宣言」」に引き付けて見るべきだろう。「福祉から警察まですべてを飲み込んだ統制経済に対抗するためには、自分自身に対抗しなければならない」という強烈なパッセージには、フーコーを読むときのような息苦しさがあり、もはや「人権」など「むき出しの生」でしかないことを痛感しているゴダールは、「犬=動物」にまで戦線を拡大しているようだ(太田竜の動物解放戦線を想起させる)。

 だが、「あなたに従う」と言われる「女」が、檻の中(収容所?)の存在でしかないように、「裸」という概念は、犬ではなく、ついに人間のものでしかないことに、本作のウェイトはあると思われる。すなわち、リルケが「世界とは外側ということだ。われわれは、それを動物のまなざしによってしか知ることはできない」と言うとき、その「外側」や「動物のまなざし」が、だが依然として「言葉」でしかないこと。「さらば言葉よ」と別れたそばから、言葉は「こんにちは」と現れること。

 おそらく、本作が、「1/自然」、「2/隠喩」、「1/自然」、「2/隠喩」というふうに、「自然」と「隠喩」の繰り返しから成るのも、さらに「2/隠喩」の章が、「「1/自然」の生じた出来事を、異なった場所と時期において、何人かの登場人物をそのままに、何人かの新しい登場人物を加えながら、再演する」(デヴィッド・ボードウェル「2+2×3D」)という構造をもっていることも、その言葉=表象の問題と無縁ではない。

(続く)