私が、生きる肌(ペドロ・アルモドバル)

 最も理解しがたいのが、いくら性転換と全身整形を施されたからといって、愛娘を強姦した男がベースとなっている身体を、はたして人はそう簡単に愛せるものだろうかということだ。それとも、これはあまりに凡庸な問いだろうか。だが、この作品では、アルモドバル的な情熱恋愛(偏愛)が、ハリウッド的な刺激へのアディクトに屈服してしまっているように見える。

 確かに、「彼女」の外見は、最愛の亡き妻そっくりに整形されている。その皮膚も、ブタの遺伝子を人間の遺伝子に組み込み、マラリア蚊の針も通さないほど「世界一」完璧な肌だ。

 かつて大火事に遭った妻は、一命はとりとめたものの、その後全身ケロイドになってしまった自らの姿にショックを覚え自殺する。外科医の夫ガレルは、その人体実験の違法性を学会で禁じられようとも、愛する者が、もう二度と火傷に苦しまないような強靭な肌を開発し移植していく。それはそれで、常軌を逸した愛の形として分からなくもない。

 観客は、中盤まで、肌を移植された者はいったい誰なのか、そもそも、なぜその者は監禁されているのか、知ることができない。

 そして、後半、「彼女」が、かつてガレルの娘を強姦し自殺に追い込んだ、青年ビセンテであることが明らかになる。当初ガレルは、ビセンテをこれでもかと拷問する。性転換も膣形成も、当初は拷問の一環であり、もしかしたら、最後は娘と同じ思いを味わせるつもりだったのかもしれない。そして、それはそれで、これまた常軌を逸した憎しみの形として理解できなくもない。

 だが、ガレルは、こともあろうに、妻とそっくりの外見に変貌したビセンテに、いつのまにか心許していくことになる。もしそこに、多少なりとも苦悩や葛藤が見られれば、観客は、この作品のテーマを受け入れただろう。

 すなわち、「外見=肌」は憎悪する「内面=人格」を凌駕し得るか――。「私」が、人格に宿るのではなく「肌」に「生きる」ことは可能か――(原題はLa piel que habito、英題はThe Skin I Live In)。だが、それはついに描かれないのだ。

 すると、観客は、結局妻(の外見)は、ガレルの理性を狂わせる魔性の女なのだ、と己を納得させるほかはない。そして、ガレルの使用人であり、また母であるマリリア(ガレルは母であることを知らない)ほど、このことをよく知っていた者もないだろう、と。だからこそ、マリリアは、最初からずっと「彼女」を葬るべきだと言っていたのであり、最後、ガレルともども「彼女」に殺されてしまうときも、「こうなることは分かっていた」とつぶやくことになるのだ。

 では、一方、ビセンテの母はどうか。ラスト、長年行方不明者として捜索願が出されていたビセンテは、性転換と皮膚移植によって、すっかり変わり果てた姿で母の前に現れる。果たして母は、「彼女」を「息子」として認識し、また受け入れることができるのか。

 ここで「肌は人格を凌駕し得るか」という作品のテーマは、「人格は肌を凌駕し得るか」へと反転することになる。ガレル側からさし出されたテーマは、ビセンテ側からひっくり返されるのだ。

 果たして、ビセンテの「私」は、いったいどこに生きているのだろうか。いや、そもそもこの作品に、生きている「私」はいるのだろうか。そのように問うことは、困難なテーマに挑んだこの作品に、あまりに不似合いだろうか。

中島一夫