ポエトリー アグネスの詩(イ・チャンドン)

 伏線の張り方と回収の仕方が巧い。後から振り返ると、すべてが見事につながっている。

 『シークレット・サンシャイン』のイ・チャンドンの新作である。初老の女性「ミジャ」は、ヘルパーのパートと生活保護で何とか生活しているものの、釜山に出稼ぎに行ったまま戻ってこない娘の代わりに、彼女の息子を預かり育てている。孫は中学生という一番難しい年頃だ。ミジャは、しばしば、どう扱ってよいか分からなくなる。

 あるとき、子供の頃「将来詩人になる」と言われたことをふと思い出したミジャは、街で張り紙を見つけた詩の教室に通うことに。期間中に、詩を一篇書きあげねばならないが、ミジャは書きあぐねている。

 やがて、孫が仲間と一緒に、同じ学校の女の子「アグネス」(洗礼名)を輪姦し、彼女を自殺させてしまったことが判明する。仲間の親と会合がもたれたが、ミジャ以外はすべて父親。彼らは事が外に漏れて息子たちの将来に傷をつける前に、何とか示談金で片付けようとするが、ミジャはその解決方法が、どこか腑に落ちない。

 一方で、最近よく言葉を忘れるミジャは、初期の認知症と診断される。だが、この作品では、まさにこの「ボケ」やミジャの志す「詩」が、男性的論理の支配に対する抵抗形態ともなっていくのだ。

 親たちの会合の最中に、突然外に出て、一人花を眺めては詩の素材をノートに書きとめるミジャは、父親たちから見れば、奇異で非協力的な困った「女」にしか見えない。だが、この作品における「詩」とは、性、金、社会的体裁、…といった男性的論理に縛られた市民社会の「イロニー」(ヘーゲル)としてあり、それがいかに暴力的なものかを暴きだしていくものとしてある。

 ミジャにとって、そうした「詩」が真にリアルになるのは、おそらくヘルパー先の体の不自由な老人男性に、性交渉を強要されそうになって以降のことだろう。アグネスの写真を追悼ミサの会場から盗んできてしまってからというもの、孫息子よりもむしろ彼女のことが気になっていたミジャは、この一件以来、アグネスへと感情的に同一化していく。

 一度は拒んだ老人を受け入れようとするのも、アグネスへの思いからだろう。それは、アグネスの輪姦が行われた理科実験室の鍵ならぬ、老人の部屋の鍵を「貸してください」と現れたときの、ミジャの悲壮な決意を秘めた表情からもはっきりとうかがえよう。アグネスが閉じ込められた空間に、ミジャは自らを閉じ込めたのだ。

 したがって、ミジャが、なぜずいぶん後になってから金を「強請り」に行くのか、という疑問は当たらない。ミジャの行為は、その時点で、示談のための金を手に入れる手段ではなかったのだから(それでは、男性的論理への加担になってしまう)。

 「かわいそうなおばあさんが行く方が、話がまとまりやすいだろう」と父親たちに言われ、アグネスの母に示談を持ちかけるために出かけたミジャは、本人の前まで行って用件を忘れ、戻ってきてしまう。それはだが、偶発的なことでも、病気(認知症)の都合のよい使い方でもない。母に会う直前に、彼女の成長の跡を綴る、幼少期からの一連の家族写真を見てしまったミジャにとって、アグネスや彼女を失った母親の喪失感への思いは尋常ではなかったはずだ。

 もし、それを認知症による「忘却」と呼ぶなら、それはほとんどカトリーヌ・マラブー的な抵抗形態(=可塑性)としてのそれだといってよい。ミジャの「忘却」が、いつも男性的論理に直面を余儀なくされたときに発揮されることからも、それは明らかである。だからこそ、老人の金を強請りに行く決心をするのも、このアグネスの母との交わり損ね=交わりの「後」でなければならなかったのだ。

 ミジャは、アグネスの母に会いにいく道すがら、落下する杏の実に、自ら生まれ変わろうとする姿を見る。もちろん、この杏の実の落下は、ラスト近く、あのバドミントンの羽根の落下の伏線なのだ。孫息子の「再生=更生」へのミジャの祈りが込められている、見事なシーンだ。作品全体を貫く、バドミントンの使い方が素晴らしい。

 だが、男性的論理すべてを踏みにじってしまったミジャは、おそらくもう同じ場所では生きてはいけないだろう。ミジャは、釜山から娘を呼び寄せたうえで、すべてに決着をつけるために消えていくほかはない。最後に書きあげたミジャ=アグネスの詩には、重なり合った傷跡と、それに対する抵抗の爪痕が刻まれる。そして、ラスト、もう一度杏の姿が反復されるシーンを見た者は、冒頭のシーンを取り違えていた可能性に気づいて、ハッと胸をつかれるはずだ。

中島一夫