三島由紀夫『詩を書く少年』

花ざかりの森・憂国―自選短編集 (新潮文庫)

花ざかりの森・憂国―自選短編集 (新潮文庫)

 三島を面白いと思ったことはない。
 機会があって、三島自身が文庫解説で、『海と夕焼』や『憂国』と並んで「私にとってもっとも切実な問題を秘めたもの」と評した『詩を書く少年』を久しぶりに読んだが、かつての印象とまったく変わらない。

 詩の「早熟の天才」として周囲の注目を集める主人公の「彼」にとって、「詩」とは、「外界=現実」と「内面=言葉」が「親和」的に等号で結ばれた状態、すなわち「リアリズム」にほかならない。したがって、三島自らこの作品を「告白」と呼ぶ以上、丹生谷貴志の言うように、「三島はよくいわれる(?)反俗的物語作家ではなくて、言葉の広い意味で「リアリズム作家」であろう」と(『三島由紀夫フーコー〈不在〉の思考』)。

 むろん、三島にとって「告白」など「仮面」のものにすぎない。したがって、主人公の少年も、言葉が世界と等号で結ばれ、「外界と内面との親和」がもたらされている状態とは、端的に「嘘」であり「比喩」であると嘯くだろう。彼にとっては、ただ「言葉が美しければよいのだ」。

 小説内では、そうした世界と言葉との、外界と内面との調和は、文芸部委員長の先輩「R」によって破られる。Rは、「詩」ではなく「現実に恋をしている」、まさにR=Realを体現する人物である。少年も「辞書の中からみつけ出した多くの言葉」によって、恋の感情も「ちゃんと知っている」と考えるものの、Rはそうした象徴界の外部として彼の前に現れる。「君にはまだわからないんだよ」。

 この作品は、言葉の構造の問題として、ニーチェ的にもカント的にもラカン的にも読めるだろう。だが、重要なのは、ラストで「彼女が僕の額をとても美しいって言ってくれるんだ」というRに対して、少年が「おでこは美しいというのとはちがう」と考えることだ。

 その瞬間、少年は「何かに目ざめた」。人生の中に「自分のおでこを美しいと思い込む」という、「それなしには」「生きられないような滑稽な夾雑物」を見出すのだ。そして、自分もまた「似たような思い込みを抱いて、人生を生きつつあるのかもしれない」と思い「ぞっとする」のだが、実はここに、三島の限界が明確に表れている。

 すなわち、それまで言葉と世界が、親和的に等価交換(リアリズム)されていた少年は、ここではじめて「おでこ」というシニフィアンと、「美しい」というシニフィエとが等号で結びつかない事態に直面し、「おでこは美しいというのとはちがう」という違和を覚える。このとき少年は、いわばリアリズムを保証する、言葉の表象=代行作用の危機を経験しているわけだ。だが、三島はその危機=亀裂を、すぐさまそれは「思い込み」であり「滑稽な夾雑物」であるといってふさいでしまうのである。

 だが、詩とは本来、むしろこの言葉の表象=代行の機能失調にかかわるものではなかったか。この作品に出てくる詩人が、ボードレールマラルメなどではなく、せいぜいワイルド、シラー、ゲーテであることからもわかるように、本質的に三島は、表象=代行の危機に出現する、いわゆる「呪われた詩人」(ヴェルレーヌ)とは無縁の「リアリズム作家」であった。ラストで少年が「自分は詩人ではなかった」ことに「気が附く」ゆえんである。

 かつては「詩を書く少年」だった三島が、「詩を書かないように」なったわけではない。三島が「詩人」であったことなどなかった。ただ、スターリン批判前夜に書かれたこの作品にしても、まさにスターリン批判の年に書かれた『金閣寺』にしても、三島は、少年同様、敏感に「何かに目ざめ」ていたとはいえる。

 だが、その「呪われた詩人」を出現させかねない「何か」も、やがてその「詩人」をも包摂し得る「文化概念としての天皇」(『文化防衛論』)によってふさがれるだろう。「しかし自分が詩人ではなかったことに彼が気が附くまでにはまだ距離があった」という末尾の一文は、そのように読まれるべきである。

中島一夫