三里塚に生きる(大津幸四郎、代島治彦) その1

 いく度も小川紳介三里塚シリーズの映像が挿入され、三里塚闘争の歴史が参照される。現在表面的には、闘争の跡があとかたもなくなっているように見える風景が、歴史=記憶を重層的に堆積させた場所へと変貌する。とりわけ、闘争の過程で命を落とした死者の記憶は濃密だ。

 本作は、小川紳介『日本解放戦線 三里塚の夏』(1968)のカメラマンだった大津幸四郎が、2012年にDVDブックになる時に何度も見直した際、「そこに登場する親同盟や婦人行動隊、青年行動隊といった成田空港建設の反対同盟の人たちが今はどうしているのだろうか、と会いたくなった」という思いからすべてが始まったという(「週刊読書人」2014年11月7日号)。

 大津自身は、『三里塚の夏』の後、小川とぶつかり三里塚を離れた。昨年11月に亡くなった大津を代弁するように、共同監督の代島治彦が言うには、「大津さんは三里塚を見捨ててしまったという気持ちがあった」のだろうと。したがって、作品全体には、ややもすると、かつての「登場人物」たちにカメラマンが久々に会いに行くといった、ノスタルジックな雰囲気が漂うことは否めない。それでも、当時はとても聞けないような証言が、長い時間を経て突然飛び出したりして、140分の間興味が尽きることはない。

 三里塚闘争について、小川の三里塚シリーズ以上のことを知らない者からすると、闘争を語り継ごうとする作品が見られることはありがたい。圧倒的に戦争(を語る)映画が多いこの国においては、花田清輝が言うように、戦争中心ではなく、革命中心の歴史観への移行が、まずもって必要だろうからだ。

 だが、一方で、鑑賞中ずっと違和感が消えない作品でもあった。何より、全体的に三里塚闘争の「闘争」性が脱色されてはいないか。いや、監督の代島は、闘争の「マイナスのイメージ」を「溶解させる映画」になったと言うのだから、むしろそれが意図なのだろう。「三里塚闘争ははじまりは農民闘争だったけれど、新左翼による過激な闘争が継続して三里塚で行われているというイメージが一般には刷り込まれていった」、「闘争の影に隠れてしまって元々の百姓の姿が、見えなくなっていた」。今回の作品は、その「元々の百姓の姿」を取り返そうとしたということだろう。

 途中インタビュアーとして作品に登場する、写真集『三里塚』(1971)の写真家、北井一夫も次のように言っている。「映画の最初で団結小屋の住人である山崎宏さんが「まだ人間は平等じゃない」と言うでしょう。本当は「革命はなされていない」と言いたいんだろうけれど…。これが昔は学生の過激なニュースが多かったし、何となく地に足がついたような意見だったけれど、今は浮いて聞こえる。だからかえって、三里塚が百姓の闘いだったと見えやすくなっているんじゃないかな」。

 その山崎の言葉はさらに「いまだに抑圧、差別、搾取がある。それは当時より強くなっているのではないか」と続いていくが、もしこれが冒頭ではなくラストにあったら、作品の印象はずいぶん違っていただろう。うがった見方をすれば、「三里塚に生きる」「百姓の闘い」の像を強調するために、「浮いて聞こえる」山崎の言葉は冒頭に置かれ、作品を通して「溶解させ」られていったのではないかとすら思える。

 また北井は、「青年行動隊の会議があったのでそこにいたら、参加している学生運動の連中が「×・×決戦、死を賭けて闘う」というビラを配っていて、それを見た青年行動隊の一人が「俺らは死ぬかもしれない闘争だったら闘わない」と言った。それは学生運動の中でずっと言いたかったことですよ。だけど絶対に言えないことだった。それを聞いた時に、ここは自由でいいなと思った」と述べている。作品のスタンスがよく表れている重要な発言だ。

 新左翼のいわゆる「決戦」主義は、当時マイノリティー運動に移行を余儀なくされつつあった闘争の「主体」のあり方からして、不可避的なものであったという(すが秀実『1968年』)。

 新左翼は、闘争の主体を担保するために、三里塚の農民は虐げられているマイノリティーであり、そうであるがゆえに「後方」に位置する同一化すべき「主体」として見出されていった。したがって、「決戦」主義的に激化する局面にこそ、新左翼三里塚農民との結合部があり、これを捨象して後者の像のみで三里塚闘争を捉え直すことは、その歴史を歪曲し矮小化することにもなりかねないと言うのは、言いすぎだろうか。いずれにしても、三里塚闘争を知る者の間で、さまざまな議論があるべき、またそれを喚起する作品なのだと思う。

(続く)