重信房子 メイ 足立正生のアナバシス そして映像のない27年間(エリック・ボードレール)その2
日本赤軍は、「根拠地」を求めて第三世界に向かったと言われる。だが、その根拠地とは、最初から遠征=彷徨をはらんだ「無根拠地」だった。バディウ『世紀』の訳者・長原豊の注にもあるように、アナバシス=anabaseは、base=根拠地をめぐるさまざまな運動(ana=下から上への、後への、反対に向かう、再度の)にほかならない。むろん、毛沢東主義者バディウにとって、それは「長征」の問題でもあっただろう。
作中、重信メイの語りにあるように、革命の「命」と、ロッド空港事件の1972年「5月(may)」から「メイ」と名付けられた娘は、遠征=彷徨の中で、不可避的に自らの姓も知らされないままに育った。彼らの革命は、父の名=根拠地を持たないわけだ。83年の左翼雑誌に掲載された、日本赤軍の求人広告にもこうある。「我々はどこにも拠点を置いていません。しかしあなた方が我々に参加したければ、場所を知ることは難しくないでしょう」。
彼らの「映像のない27年間」をアナバシスとして捉えたとき、その歴史は否応なく現在に侵食してくる。冷戦崩壊以降のわれわれもまた、それまで「意味―方向性」を与えていた秩序が瓦解し、指導者を失うことで、右往左往するギリシャ人のように彷徨を余儀なくされている。
バディウは、その歴史の系譜を、パウル・ツェランの詩「アナバシス」(1963年『誰のものでもない薔薇』)に見出す。ツェランの「一緒に/共に」の中に、「今日にあってもいまだ腐敗していないすべての者」への呼びかけを聴いたのだ。そして、呼びかけられた者らは、「叙事詩的な友愛の「我ら」から、「共に」に結集する混淆的「我ら」へ、一箇の「我ら」が有るべきだという主張へ頽れることなく、移行するには、どうすればよいのか?」と「自問」することになるだろう。
アドルノの「アウシュヴィッツ以降、詩を書くことは野蛮である」という、今やテーゼと化した言葉(3・11後においても乱発された)に、唯一拮抗し得る野蛮な詩を書き続けたツェラン(「山中の対話」参照)の、「一緒に/共に」というアナバシス。それは、3・11以降、まさに「叙事詩的な友愛の「我ら」」にもはや回収されているかもしれぬわれわれにとっても、例えば、石原吉郎の「共生」とともに、いまだなお重要な参照先としてあるだろう。
2000年、重信房子は、逮捕され裁判所へ召喚された際、「日本赤軍は決してテロ組織や「モンスター」ではない」ことを宣言するとともに、次のような陳述書を読み上げる。「ここで私は、自分の国で闘争を続行するにあたって必要な条件を整えたいと思いました。私は新しい方法で闘いたかったのです。今度は武器をもたず、公明正大に、そして私自身の名で。それこそが、私が帰国した目的だったのです。予期していたよりも早く逮捕され、機会は訪れませんでしたが。〔…〕ソ連崩壊と湾岸戦争の後、我々は時代にふさわしい闘い方を探していました」。
同様に、作品のラストの「もう「どこ」にいても同じだ。「ここ」にいる自分の中に革命のロマンがるから」という足立の言葉を、結局「よそ=アラブ」は幻想だったとか、「ここ=日本」に追い詰められてしまったというふうに、ナイーブに受け取るべきではないだろう。「ここ」にいようが、「よそ」にいようが、われわれは「アナバシス」の渦中にある。その中で、いかにして「一緒に/共に」あり得るかという、「時代にふさわしい闘い方を探して」いかねばならないということ。
このフィルムは、彼らの「映像のない27年間」を映像=歴史としてあらしめることによって、今や見えなくなりつつある68年と現在とを結ぶ「線」を再び可視化する、貴重な作品である。「映像のない」時間の中をただ押し流されてきたのは、これを見ている自分の方なのだ。
現在、足立は、武装闘争と2011年の「アラブの春」革命に関するブラックコメディ、『メヴィウスの宴(Banquet of Mevius)』を制作中だという。
(中島一夫)