スターリン言語学について

 津村喬氏が、ブログ(9月29日の記事)http://kikoubunka.jugem.jp/
で、田中克彦『「スターリン言語学」精読』に触れているのを目にし、「ああ、こんなことを考えていてもいいんだ」と勝手に「承認」を得たような気になって、以前書きかけて放り出してあった、スターリン言語学についての文章を書き継いでみる。

 自分の場合、ソ連ラーゲリ経験者でエスペランティストだった、高杉一郎の『わたしのスターリン体験』や『征きて還りし兵の記憶』を読んで、問題の1950年のスターリン言語学」論文(『マルクス主義言語学の諸問題』)を知った。高杉の『わたしのスターリン体験』の解説を田中克彦が書いていて、そこから『「スターリン言語学」精読』へと読み進めることとなった。

 私にとって、スターリン言語学が無視できなくなったのは、先日の「ビッグブラザー」の記事でも触れた「1948年」に、それは大きく関わってくるからだ。
http://d.hatena.ne.jp/knakajii/20130902/p1

 高杉や田中を震撼させた、1950年のスターリン論文は、マルクス主義に基づくソビエト言語学(特にN・Ya・マルの「交配理論」)の敗北と終焉を宣言した。曰く、言語は、機械=道具であり(後で触れるように、サイバネティクスの影響だろう)、したがって上部構造でも階級的でもない――。仕舞いにスターリンは、信じられないような一言を述べる。

 言語は「資本主義制度にも社会主義制度にも同じように奉仕しうるのである」。

 1956年のフルシチョフによるスターリン批判に先だって、スターリン自らスターリン批判を行った、それが1950年の論文なのだ。現にこれ以降、「かつて「ブルジョア言語学」と称されていた欧米の言語学の紹介や翻訳が、ソ連邦言語学市場にあふれ出し、またたく間にそこを満たした。五六年には、もはや、スターリンの名に言及する著作はめったになくなり、五七年には完全に消えた。次いで、スターリンの名前と、この論文も忘れ去られて行った」(田中、前掲書)。ここから見れば、56年のフルシチョフスターリン批判など、すでに出来上がっていたその流れに従った「おまけ」にすぎない。

 では、なぜスターリンは、自らスターリン批判を敢行したのか。田中はこう述べる。

だが、ソビエト言語学が、いな、世界の言語学が、その役割を大きく変えねばならないことを迫る予兆はすでにあった。それは、ソ連におけるサイバネティクス――ロシア語ではキベルネチカと言う――への大きな、さしせまった需要と期待である。
 一九四八年に、アメリカではウィーナーが、サイバネティクスの理論を発表すると、ソ連ではこの方面におけるアメリカへのたちおくれが深刻に意識されるようになった。それは情報処理からはじまって、機械翻訳、コンピューター開発へと発展して行く技術革新に結びついて行くものであった。
 ソ連アメリカに対抗し、時には先んじることができ、五七年にははやくもスプートニク一号を打ち上げることができたのは、この方面での劇的な速さでの進歩があったからである。

 1948年。
 むろん、ここには、生産力理論ほか、さまざまな問題を考え合わせる必要があろう。だが、言語は、上部構造でも階級的でもなく、したがって資本主義であれ社会主義であれ同じだという、スターリン自らの「転向」宣言は、やはり決定的だったといえよう。

 以降、言語学は、「転向」言語学となる。すなわち、言語(学)から、階級が、政治が、抜き取られ、あたかも機械や道具(ツール)のように抽象化されたのである。

中島一夫