マルクス主義における再生産論的転回(沖公祐)

 ご恵投を受けた『現代思想と政治』(市田良彦 王寺賢太編)には、興味深い論考がずらっと並ぶ。ここでは、沖公祐「マルクス主義における再生産論的転回」について少し記しておきたい。今までも沖の論文は、目に出来る範囲においてずっと読んできたし、その都度思考を刺激されてきた。今回も、あいかわらずシャープである。

 本書の市田論文「現代思想と政治をめぐる序」が、沖論文について的確に指摘するように、マルクス主義における「転回」とは、要はマルクス主義自体の「転向」のことだ。

 過去の論文についても言えることだが、沖の思考に一貫してあるのは、資本主義の「間=外部」性という視点である。今回主題化された再生産論というのは、一言で言えば、それを「内部」(内発)的なものと誤認し、その結果、間=外部にある資本と、社会(ゲマインヴェーゼン)の内部とを同一視してしまっている事態、ということになろう。

 初めに見たように、マルクスは、社会の外部に発生した商品交換(市場)が内部に浸透することによって、資本主義が発生したと考えていた。「支配」概念を用いて言い直せば、非資本主義的生産様式が支配的な社会に市場が浸透し、資本主義的生産様式が支配的な社会が生まれてきたということである。古典派経済学が考えたように市場が、したがって、資本が社会の内側から発生したのではないとすると、社会の生産様式のすべてが資本主義的に営まれるようになると考えるのは相当に無理がある。当然のことながら、資本が生産を摑むのは、社会が再生産するためではなく、利潤獲得のためであり、したがって、資本が生産過程に浸透していくにあたっては、(期待)利潤率を基準とする取捨選択が働く。

 今回、私は、『子午線』vol.4
 http://shoshi-shigosen.co.jp/books/shigosen4/
に掲載の評論で、中村光夫が、「資本主義は自分の姿に似せて世界を変革する」というマルクスの言葉を携えながら、一貫してリアリズムへの「疑惑」を手ばなさかった批評家であったこと、その意味において、まさに「プロレタリア文学者」だったことを明らかにしようとした。

 資本主義が、社会の内部に浸透し、いつのまにか「資本主義的生産様式が支配的な社会が生まれ」ていくことに、文学もまた加担してきたこと。リアリズムとは、外部の現実=資本主義を、言文一致化された言語を介して、内部へと映し=移し替え、浸透させていく営みにほかならない。だが、今回、沖論文を読んで、文学を再生産の装置として捉え直すことで、さらに展望が開けてくるように感じた。

 沖の視点からすれば、社会が資本に包摂されたとか、資本主義がグローバル化したという物言い自体が、資本の「間=外部」性を隠ぺいするイデオロギーにすぎない。沖は、以前の論文でも、「新自由主義とは、資本が社会的再生産を担えなくなったことの資本自身による告白にほかならない」と述べていた(「制度と恐慌」『情況』2013年6月別冊)。

 新自由主義とは、資本に覆われるどころか、資本が社会から撤退し、「間=外部」へと回帰しようとする現象なのだ、と。「だとすれば、われわれの採るべき途は、資本を社会の内部にとどめるための制度を再構築することではありえない。資本主義から制度を取り戻すこと、資本主義的制度とは別の、新たな制度を創設することでなければならないのである」。

 現在、文学における「転回=転向」を考えることは、まさに資本主義から文学を、言葉を、取り戻すために必要な作業なのだと考える。

中島一夫