エリジウム(ニール・ブロムカンプ)

 評価が軒並み低い。
設定、物語、パワードスーツや戦闘シーン、要は「世界」の構築が甘い?

 いや、この監督は、前作『第9地区』同様、未来を見せているわけでも、もっといえばフィクションをやりたいわけでもない。現在存在する世界の矛盾を、半ば本気で考えているのだ(『第9地区』も、途中でマジだと分かってから、笑えなくなる)。

 この監督に見るべきは、緻密な設定や仕掛けなどではなく、純粋に世界を変えたいという、その真摯さなのである。決して、鋭敏ではないがどこか純粋さの残る顔をもつ、マット・デイモンを主役に据えることからも、それはうかがえよう。

 今作で主題化されているのは、アメリカを覆う医療格差問題であり、ヒスパニック問題である。やがて人口構成でトップになるだろう、ヒスパニック系住民、世界有数の先端医療技術が、ほんの数パーセントのアッパー層のものであること。こうした作品の舞台設定は、アメリカの日常そのものだ。

 主人公の「マックス・ダ・コスタ」(マット・デイモン)は、製造会社アーマダインの工場で作業中に放射線を大量被曝し、余命5日となる。生き残るには、難病を一瞬にして治す、最新医療ポッドを備えた「エリジウム」(富裕層のみが「市民」となることができるスペースコロニー)に行かねばならない。だが、宇宙船に乗るには、莫大な費用が必要であり、「市民」ではない者は、たちまち不法移民として捕まるか殺されるかしてしまう。マックスのエリジウム行きを懸けた戦いが始まる。

 当初、「俺は死ぬわけにはいかないんだ」と言って、自分の命のためだけにエリジウムを目指していたマックスは、幼馴染の「フレイ」の娘「マチルダ」が重度の白血病だと知り、さながらマチルダの語るおはなしに出てくる「カバ」のごとく、途中から「友のために」という目的を見出していく。

 ことはそれでは終わらない。かつて勤めていた製造会社のCEOから、エリジウムのシステムを一新させるプログラムのデータを奪い取り、自らの脳内に埋め込むことに成功、それ以降の彼の行動は、知らず知らずのうちに、エリジウムに行きたくても行けない、自分のような地球住民=貧民のためのものにもなっていくのである。

 それを妙な代表=選民意識でやられたらたまらない。だが、この「愚鈍」で「純真」なマット・デイモンは、いったい自分が何をやろうとしているのか、一貫してよく分からないまま、何かに突き動かされるようにことを起こす男なのだ。「このデータは、それほど重要なものなんだな?」。

 だが、ある時、思い出が蘇える。それは、彼にとってエリジウムに行くことは、フレイと交わした幼い頃からの約束だったということだ。子供の頃、本で読んだエリジウム。そこに彼女を連れていくことこそが、ずっと彼の夢だったのである。

 すなわち、彼の脳内にある記憶には、はじめからエリジウムに行くことが「プログラム」されていたことになる。しかも、その夢の中のエリジウムは、もともと一部の富裕層のものではなく、万人に開かれた理想郷だったのだ。

 したがって、本当は、エリジウムのシステムをすべての「市民」に開かれたものに刷新するというプログラムは、奪うも何も、とうに幼少期に約束した記憶として埋め込まれ、ことあるごとに回帰する思い出として、いつも彼の脳内で作動していたのだ。ひょっとしたら、今自分が、訳も分からず戦っている戦い自体が、「思い出」なのかもしれない――。

 だから最後、CEOから奪ったプログラムにしたがって、マックスは死んだわけではないだろう。いわば彼は、一生をかけて、子供の頃に見た夢を、フレイと交わした約束を、「純粋」に生きたのだ。

中島一夫