三里塚に生きる(大津幸四郎、代島治彦) その2

 ともするとこの作品は、ジジェク風に言うと、「三里塚闘争を、68年抜きで」と見られかねない。その1の末尾で述べたような、そのような本作の危ういスタンスが最も露わになるのが、おそらく小泉英政のシーンだろう。

 機動隊員三人が死亡した、東峰十字路「決戦」における第二次強制代執行で、強制連行された大木よねの闘争ぶりにほれ込み、そのまま養子となった小泉は、元「ベ兵連」の活動家(二度逮捕歴もある)ではなかったか(山口幸夫「三里塚脱原発運動」)。にもかかわらず、作品では、あたかも「ただの市民=農民」であるかのように表象されている。

 むろん、小泉がベ兵連であったかどうか自体は問題ではない。ただ、そうした接点が見えなくなってしまえば、例えば相模原の米軍基地からベトナムへと戦車が送られることを阻止しようとしていた相模原闘争と三里塚闘争とが具体的に結びついていた、その「線」も見えなくなってしまう。これは、例えば現在の沖縄をはじめとする基地問題と反原発運動とをつなぐ「線」を思考するうえで、極めて重要な接点ではないだろうか。

 本当は、本作にも出てくる、例の飛行機の離着陸を妨害する三里塚の大鉄塔は、その「線」の象徴ではなかったか。小泉は、鉄塔建設においても、鳶として天辺のほうまで上って作業していた人物だという。

 その鉄塔建設を、反対も多いなか、リーダーシップを発揮して強行した一人が、かの「市民科学者」高木仁三郎だった。今作ではそれもオミットされる。そして、高木をオミットするということは、3・11以降再び脚光を浴びたこの反原発イデオローグを通して、三里塚が現在のエコロジーにまでまっすぐつながっていることも見えなくなってしまうのである。

 この文脈でも、小泉は、その高木や山口の影響下で、一九七六年に「三里塚微生物農法の会」を結成し、堆肥作りから始めて化学肥料を使った大量生産農法と決別した。小泉は、先の相模原闘争の渦中で、レイチェル・カーソン沈黙の春』などを読み、日々の暮らしから変革しようとした、相模原の女性たち中心の「くらしをつくる会」とつながることで、不ぞろいだが有機の野菜を送り届けるというエコロジカルな活動を展開していくことになる。

 おそらくこうした活動は、小泉にとって、大木よねの畑を国から奪還して耕すことと切り離せない、その「国に拠らず」という思想に基づく三里塚闘争の「持続と転形」ではなかったか。

 すると、例えば、三里塚に外からやって来た小泉のこのような取り組みと、今日まで一人反対同盟を続け、作品でも黙々と作業を行う柳川秀夫の農業とは、果たしてどのように共存し、また差異や対立をはらんでいるのか。両者をともに、三里塚闘争の「絶滅種」(代島)として捉えるこの作品からは、うかがい知ることができない。

 だが、柳川が、講演のシーンでわずかに漏らす「最近また、警察の監視が厳しくなってきた」という声一つとっても、三里塚が「闘争」としていまだ終わっていないことを示していよう。そこには、かつての闘争の渦中で自殺した三ノ宮文夫の遺志に応えるという、柳川曰く「魂」だけではすまない、闘争の「持続と転形」の姿があるはずだ。

 欲をいえば、見たかったのは「魂」よりも、その「持続と転形」の具体的な姿である。「魂」と言われてしまうと、それを共有していない者にとっては、恐れ多くてひれ伏すしかなく、つまりは疎外しかないからだ。

中島一夫