ジミーとジョルジュ 心の欠片を探して(アルノー・デプレシャン)

 血縁の乗り越えとしての「養子」、権威の脱臼としての「対話」(セッション)。

 デプレシャン的な革命のテーマが、フランスからアメリカに舞台を移して展開される。あたかも、カフカが(そしてベンヤミンカフカに見出した)『インディアンになりたいという願い』を抱き、『アメリカ』へと脱出したように、本作でもインディアンとアメリカがテーマとなる。

 薬物の大量投与以前の精神分析が機能していた頃、PC以前の差別(的表象)がまだ通用していた頃、新大陸以前のネイティヴアメリカン、人種や他民族に不寛容になる以前の寛容な古きよきアメリカ、……。

 この作品では、すでに失われてしまった諸価値が「再発見」される。だが、デプレシャンの視線は、決して懐古的ではない。これは、グローバル=世界化した、アメリカ自体の、それこそ精神分析的な遡行の物語なのだ。

 第二次大戦中、頭がい骨を骨折した、ネイティヴアメリカンの「ジミー」(ベニチオ・デル・トロ)は、帰還後、激しい頭痛に見舞われる。だが、診断上、脳の損傷でも戦争神経症でもないジミーに、医師たちはどう対応してよいかわからない。もし統合失調と判断してしまえば、彼は精神病院送りとなり、半ば一生監禁状態だろう。そこで、ネイティヴアメリカンの文化や歴史に詳しい人類学者、ジョルジュ(マチュー・アマルリック)が、急きょ呼び出されることになる。

 ジョルジュは、ジミーと、夢判断による精神分析の対話(セッション)を繰り返す。ネイティヴアメリカンは、夢判断の風習を持つからだ。

 例によって、マチュー・アマルリックが怪しい。ジョルジュは、ユダヤハンガリー人で、ハンガリー訛りのぎこちない英語を話す。PC全盛時代の現在にあっては、「アウト」の描写だろう。しかも、人類学者でありながら精神分析の臨床を続け、治療開始早々自分の体調が悪くなってしまい、ジミーに気遣われる始末だ。このいかがわしい存在は、いったい何者なのか。果たして、患者を診る能力や資格はあるのだろうか(事実、彼はもともと患者という設定だ)。

 普通だったら、ジョルジュが詐欺師だったとか、逆に精神分析によって、ジミーのとんでもない過去のトラウマが発覚するとかといった展開になりがちだろう。だが、作品は、物語の起伏もなく、ただひたすら淡々とセッションが続けられるだけだ。

 途中で観客は、徐々に気づき始める。この作品においては、セッションの内容や結果ではなく、セッションを散文的に持続していくあり方自体が重要なのだ、と。ジョルジュは、それなりにジミーの夢に分析を加えていくが、どこまで正当かどうかわからない。そもそも、ネイティヴアメリカンにおいては、夢判断は、過去ではなく未来を「見る」ものだからだ。ジミーは言う。「夢の話だったら、一日中していられるよ」。

 実際、ジミーの夢語りの映像には、少年時代の自分とともに、現在の自分も映りこんでいる。まるで、彼には、過去と現在(未来)、夢と現実の明確な区別が存在しないかのようだ。そしてそれは、「映画」そのものではないか。いつしか作品は、「映画」の精神分析に足を踏み入れていく。

 ジミーの語ったことが、事実かどうかはわからない。また、ジョルジュの分析が、有効かどうかも不明だ。だが、貨幣(形態)を夢判断し、精神分析的に原初の商品aと商品bとの対峙へと遡行していったマルクス資本論』のように、まったく異質な人種や文化を背負ったジミーとジョルジュが、あらゆる属性をはぎ取った裸のaとbとして、ひたすらセッションを交わしたということ。これだけは、確かなものとして、ある。

 マルクス資本論』に違和感があるなら、花田清輝のいう、抑圧された者が抵抗として用いる「女の論理=レトリック」(花田清輝)と言い換えてもよい。「かの女の思考は対話の形式をとり、独白の形式をとることは殆どない」(『復興期の精神』)。

 ジミーというネイティヴアメリカンと、ジョルジョというユダヤ人は、その人種的に抑圧された状況に対して、「真実」を求める「男(マッチョ)の」ではなく、決して「意味」には到達しない「対話」という「女の」抵抗を通して、「頭痛」を乗り越えていくのである。

 おそらくこの作品は地味すぎて、ほとんど話題にもならないだろう。だが、ここにある静かな「抵抗」を、そして二人の間にあった確かなものを信じられないなら、映画など何でもない。

中島一夫