インセプション(クリストファー・ノーラン) その2

 愛し合っていた妻という他者に関する現実の記憶を、それが禁じ手であるにもかかわらず、自らの夢に再現してしまうコブにとって(『惑星ソラリス』を想起させる)、もはや夢の外部は存在しない。「その1」で述べた意味において、ラストシーンは、コブ自身が「本当に眼ざめることは可能か」という問いを突きつけている。

 もしコブ夫妻の関係に優劣があり、コブだけが一方的に現実/夢の判別ができるのなら、この作品は大して面白くない。この夫婦関係が、相互に非対称的な他者であるのみならず、現実と夢とをまたいでもそうなのだということが、あの、通りを挟んだ超高層ホテルの窓ごしの対話シーンを一段とスリリングにさせるのだ。ここでは、何より現実と夢とが非対称的に屹立しており、現実を現実として承認しあう共同主観性が疑われている。

 コブは、インセプションの結果、現実を夢だと信じている妻に、「一緒に現実に戻ろう」(すなわち、一緒に死のう)と誘われる。ホテルの窓から「私を信じて飛んで」とさかんに唆される。まさに「不合理ゆえに吾信ず」(埴谷雄高)だ。

 柄谷の埴谷論を引いたのは、ほかでもない。転向とスターリン批判とによって、正統性を担保する「党」なき空間に放り出された埴谷が、まさにこのとき自らを対象化し得ない「夢の呪縛」を受けていたことは想像に難くない。その「夢」の中で、にもかかわらず本当に目覚めようとあがいた軌跡が、『死霊』の世界にほかならない。

 さらにいえば、埴谷同様シュティルナーの「唯一者」から出発した柄谷の批評が、その後、「他者」との「非対称性」をその「可能性の中心」として見出していったことも、この文脈で捉えることができるだろう。「他者性」とは、いわば、「信じて飛ぶこと=命がけの飛躍」が成立するか否かが賭けられる「場所」であり、(経済的な)「信用」や(宗教的な)「信仰」が胚胎する「場所」でもある。ここでは、すでに、「共同主観性」を保証する、欲望の体系たるヘーゲル的な「市民社会」の十全な機能が疑われている。あたかもシュティルナーアナーキズムの祖のごとく捉えられたりするのも、その「唯一者」が、何よりヘーゲルの体系(市民社会―国家)への批判であったからだ。

 それにしても、ノーランの並々ならぬ「虚構=夢」の創造への意志には、やはり感動を覚える。『インセプション』において、夢は受動的に「見る」ものではなく、徹底的に「創造する」(「天地創造」!)ものとしてある。設計や建築の技術も、そのために必要となるものだ。

 従来、精神(夢)分析における「自我」の垂直的な構造は、西洋建築の垂直的なヒエラルキーとパラレルに捉えられてきた。たとえばヒッチコックの『サイコ』のごとく、二階=超自我、一階=自我、地下室=エス、といったように(非西洋的な平屋構造では、こうはいかない)。だが、この作品に見られる階層化された「夢」は、これとは似て非なるものだ。

 コブは、建築家である「義父」の元教え子であり、夢の設計も彼から伝授された。ところで、「義父」とは、血統の正統性に基づく「父」ではなく、したがって「義父」との関係とは、既存の父子関係のヒエラルキーではなく、新たに「創造」されたヒエラルキーとも言うべきものだ。コブに与えられる今回のミッションも、巨大企業の御曹司に、血統の正統性によるヒエラルキーを疑い、父を模倣・継承することなく自立させようとするものだった。そのミッションの依頼人渡辺謙)自身が、ミッションに参加してしまうという実に滑稽な事態も、既存のヒエラルキーへの疑いという文脈で捉えるべきだろう。

 もちろん、『インセプション』においては、夢はあからさまに「ヒエラルキー階層化」されている。だが、見てきたように、それはあくまで新たに創造され構築された「夢」であって、したがってそれはゆがんだり、無重力になったり、無限階段のようなパラドックスがあったりもする。まさに迷宮(アリアドネ!)であり、ヒエラルキーなき「階層」なのだ。

 あくまでそれは、ミッションを遂行するチームのメンバーが、夢空間を共有するうえで、「現実」との距離をはかるために階層化されている(各階層に流れる時間の速度も異なっている。もし夢空間が均質的で、横並びの並列関係にあったら、「現実」のありかが判別できない)。実際には不可視のこの「階層」は、既存のヒエラルキーを根本から疑い、「夢」を新たに創造しようとする者だけに、その姿を見せるのだ。

中島一夫

  早実、大勝。
  きっと昔の教え子たちも喜んでいるだろうなあ。