革命の狂気を生き延びる道を教えよ

 今さらだが、すが秀実「小説家・大江健三郎 その天皇制と戦後民主主義」(「群像」2020年3月)は、この批評家の68年論を考えるうえで不可欠な論考になろう。だが、そこから何かを学ぼうとする者は、いつにもまして突き放される。ここで、すがは、「今ここにおける革命の現実性」の可能性を、ほとんど大江の「狂気」が「生き延びる道」にしか見出すことができないと言ってしまっているからだ。果たして、狂気を学ぶことなど可能なのか――。

 

 時折、妙に足早になるこの論は、ひょっとしたら別に完全版があるのではないかと想像されるが、それも含めて、その内容をいまだとても咀嚼できたとはいえない。ここに雑然と書きつけられるのは、ほんのごく一部についてのノートにすぎない。

 

すが「自分自身のことを省みても、オレだって高校時代は吉本主義者で、〝何が学生運動だ、フン!〟とか思ってたんですよ。革マル主義者にはならなかったけどさ。ところが大学に入ってみると、吉本主義者だったはずの自分も、学生運動をやっちゃうわけだ。〔…〕その時に何が糧になったかと云えば、黒田というか埴谷雄高ではなく……クロカンと埴谷雄高は同じだからね。埴谷ではなくやっぱり大江健三郎なんです。大江健三郎の小説を読んでた。キチガイじゃないですか、大江健三郎も。小説を読めば、不倫は平気でやるわ……大江の小説って要は〝反民主主義〟なんですよ。大江健三郎を読んでたおかげで、オレは〝68年〟に乗れたんだと思う。」(外山恒一との対談「人民の敵」45号、2018)

 

 民主主義を問うことは誰にでもできる。だが、今や天皇制を、いや王殺しを問うことは「狂気」にしかできない。だが、この国は、王がいるのに民主主義を強弁し続ける。なるほど、天皇は王ではないといわれる。では、いつどのようにして王殺しは行われたのか。民主主義が強弁されるなか、このことは不問に付され続け、いまや狂気をもってしかアクセスできない。もう、このようなテーマで小説が書かれることもない。

 

 フーコーが狂気の終焉を宣告してからというもの、狂気を持続することほど困難なこともない(「狂気とはいったい何であったのか、ひとにはもうよく分かりはしない、という日がやがてくるだろう」(「狂気、作品の不在」一九六四年))。狂気は後景に退いてしまい、ポテンツを下げつつ薄く広く浸透し、今や「人はみな妄想する」(ラカン松本卓也)と言われる。王殺しの狂気は不可能になったのと引き換えに、王と民主主義とが矛盾なく両立する――これもまた資本主義が可能にした「できちゃった結婚」(シュトレーク『資本主義はどう終わるのか』)か――ことを受容できる「妄想」が広く共有されたということだろう。

 

 これまでもすがは、たびたび天皇制と王殺しを口にしてきたが、左翼知識人からは、実は天皇好きなのではないかと揶揄もされてきた。だが、この批評家が、いったい何にこだわってきたのかが、近年明らかになりつつある(『天皇制の隠語』(二〇一四年)あたりから前景化してきた)。それは、講座派マルクス主義から労農派へと転回した新左翼が、それゆえその世界(革命)性と引き換えに、天皇制を不問に付してきたことにほかならない。そして、天皇制が「半封建的な遺制」とは言えなくなった(リアリティを失った)時代に、なお王殺しを問い続けるために、このたび大江の「生き延びる」狂気が要請されたのである。

 

しかし、大江のめざましさは、天皇制を不問に付す時代の到来のなかで、逆に、「王殺し」という「志」を持続してきたところにある。たとえ、それが最終的に挫折しようとしまいと、持続は二〇〇〇年代の『水死』まで続く。

 

鷹四は戦後天皇制民主主義の体制に行き詰まっているのであり、それを「狂気」によってのりこえようとしたと言える。それが、今ここにおける「革命の現実性」(注-ブント内「革命の通達派」による)である。

 

 『革命的な、あまりに革命的な』(二〇〇三年)の段階では、大江の革命性は、相対的に『万延元年』の「鷹四」よりも「蜜三郎」に見出されていた。それは、『われらの時代』(一九五九年)の系譜が示す「神経症的/パラノイア的磁場」から「外」(ブランショフーコー)へと「逃走」する、その言説の「無責任=いいかげんさ」においてしかない、と。鷹四は「本当の事を言おうか」と言って死ぬが、蜜三郎にいたっては「何が「本当の事」やら知らぬ」のであり、蜜三郎の向かうアフリカは、もはや『われらの時代』のアルジェリアのような第三世界でも本来性でもない、と。そして、この大江の「無責任」に拮抗し得るのは、大江作品の「数」のテマティックを「荒唐無稽」な「数の祝祭」として肯定してみせた蓮實重彦の『大江健三郎論』(一九八〇年)の「無責任」さをおいてない、と。

 

 だが、今回、明らかに重心は移動している。ドゥルーズガタリの「n-1」をふまえたとおぼしきその「数の祝祭」の肯定は、「いささかオプティミスティックだったのではないだろうか」と批判されるのだ。「本稿は、そういう言い方をすれば、大江において「-1」の作業が難渋をきわめているところに、むしろ論点を置いている」と。

 

 蓮實の論じる、大江の「無責任」な「祝祭」とは次のようなものだった。

 

そのときはじめて、空位として残された定員一の正統的な後継者あらそいとは無縁のありとあらゆる細部が、《全体》の再現に不可欠な部分としてではなく、全体をも再現をも嘲笑する無責任な断片として、同じ一つの方位などを確信する律義さなど笑いとばす勢いで、「作品」という名の世界の表層に向けていっせいにせりあがってくる。そこでは、すべてが周縁的な少数者である。そして、全体に奉仕することのない断片たちは、荒唐無稽に設置される等号でとりあえずの関係を結ぶが、そこにみられる等号の無限連鎖は、中心など見たことも聞いたこともないといったようにひたすら偏心化する。〔…〕祝祭はすでにはじまっている。急がねばならない。(『大江健三郎論』)

 

 「空位として残された定員一の正統的な後継者あらそい」とは、王殺しの後の「空位」をめぐる「あらそい」を容易に想起させる。だが、大江の「数の祝祭」においては、その「あらそい」は「全体」も「再現」も目指されず、したがってそこは「中心など見たことも聞いたこともない」ような「すべてが周縁的な少数者である」世界である。少数者=マイノリティたちが、中心なき周縁において、おしなべて匿名の数=記号として無限に連なっている空間――。

 

 むろん、蓮實は、この王殺し後の共和制的といってもいい「祝祭」に対しても、「荒唐無稽、荒唐無稽」と半ば戯れてみせる。だが、一方、今回すがは、その「荒唐無稽」な「無責任」に対して、「いささかオプティミスティックだった」と懐疑するのだ。おそらくそれは、華青闘告発以降の世界ともいえる、このマイノリティたちが連鎖する「数の祝祭」が、PCという資本主義の「数の祝祭」?に簒奪=再領土化されてしまった帰結を目の当たりにしたからではなかったか。もはや、n-1の「数の祝祭」が批評的に機能し得なくなったということだろう。それは、自らの68年についても再考を促されたということでもある。「すべてが周縁的な少数者である」「数の祝祭」とは、新左翼天皇制からの「逃走」の帰結でもあるからだ。

 

 なぜ、「数の祝祭」は無効化したのか。おそらく、「数の祝祭」として見出される共和制の空間が、ジジェク的に言って、王殺し「抜き」のそれにほかならないからだろう。すがは、そのことを、端的に「天皇は単に「1」とは言えない」のだと言う。それは「「n」個である国民の「1」ではないのだから、「-1」を敢行しえない」、天皇は「万」世「一」系の「1」という「数」のテマティックとして戯れることはできない、と。

 

 これは、江藤淳天皇を「プラスワン」と捉えたことともかかわってくる問題である(拙稿「江藤淳の共和制プラスワン」(「子午線」6、二〇一八年)参照)。繰り返せば、近年のすがには、この「無責任」が、天皇制を不問に付してきた新左翼の「オプティミスティック」な「無責任」として見えてきたということだろう。むろん、それに対しては、「無責任の体系」の丸山眞男のように、単純に「責任」というだけでは済まない。その(市民の)責任とは、すでに王殺しが起こったことにする無責任と同じものだからだ。そのような責任=主体=主権が容易ではないからこそ、今回、生き延びる「狂気」が主題化されたのである。

 

(続く)