キャタピラー(若松孝二)

 戦争を描くとはどういうことなのか。いや、もっとはっきりいえば、「反戦映画」とは何か、考えさせられた。

 第二次大戦中、中国戦線に出征した「黒川久蔵」(大西信満)は、傷痍軍人として帰還する。だが、その四肢は根元から切断され、顔の右半分はケロイド状に焼け爛れ、口もきけず、耳も聞こえない。変わり果てた夫の姿に、妻「シゲ子」(寺島しのぶ)は、まるでホラー映画のごとく絶叫する。

 数々の勲章が国家から与えられ、新聞もその武勲を手放しに称賛、村一同から「軍神」としてまつりあげられる久蔵だが、家の中ではシゲ子の手を借りなければ、排泄ひとつできない。肉塊でしかなくなった彼だが、食欲や性欲は、まるでそれだけの人間になってしまったかのようにとどまることを知らない。シゲ子はそのたびに、「はいはい」と嘆息しながらも、「銃後の妻の鑑たれ」と自分に言い聞かせ、自分の分を犠牲にして彼の口に粥を運んでは、服を脱いで彼にまたがるのだ。最初感じていた「名誉」もやがてすっかり色あせ、その「食べて、寝て、食べて、寝て、……」の散文的な戦争の時間は、夫婦を徐々に蝕んでいく――。

 このように見てくれば、その設定からストーリー、細部の描写、登場人物のセリフに至るまで、江戸川乱歩の小説『芋虫』を思い浮かべないことは難しい(そもそもタイトルからして「芋虫=キャタピラー」だ)。にもかかわらず、クレジットにも一切触れられていないとなると、今後、ことは「盗作」問題に発展していきかねない問題をはらんでいる(すでにネット上では、いろいろと物議を醸している)。

 もちろん、映画には、『芋虫』にはない設定やシーンがいくつも付け加えられている。そもそも、『芋虫』は第二次大戦以前の1929年に発表されている(すると、乱歩は第一次大戦後のヨーロッパあたりから発想を得たのだろうか)。したがって、戦争自体をテーマ化しているようには読めない『芋虫』に対して、映画ははっきりと戦争を、しかも日本の戦争をテーマとしているといえる(それでも「原案」であることは避けられないだろうが)。

 乱歩自身、『芋虫』は反戦小説として書いたのではないと明言している。ただ、苦痛と快楽と惨劇とを書きたかったのだ、と。だが一方で、プロレタリア文学盛んなりし頃に発表されたこの作品が、「反戦小説として激励されたりした」(荒正人江戸川乱歩傑作選』解説)こともまた事実だ。

 これは、単なる誤読や曲解ではない。佐藤春夫谷崎潤一郎に連なる、乱歩の耽美派的でグロテスクな「探偵(小説)」は、どこか「市民社会―国家」のヒエラルキー(秩序)に抵触し、それを不断に脅かす「もの」として読まれ得るし、またそこにこそ醍醐味がある。乱歩も、これぞ探偵小説の「定義」として引用する、佐藤春夫の『探偵小説論』の一節にもこうある。

 「要するに探偵小説なるものは、やはり豊富なるロマンティシズムという樹の一枝で、猟奇耽異の果実で、多面な詩という宝石の一段面の怪しい光芒で、それは人間に共通の悪に対する妙な讃美、怖いもの見たさの奇異な心理の上に根ざして、一面また明快を愛するという健全な精神にも相結びついて成立っている。」

 『芋虫』に描かれた、戦争がもたらしたとしか言いようのない「猟奇」性や「人間に共通な悪」は、単に露悪的なものではなく、どこかでそれは「厭戦反戦」という「健全な精神」に転じていく「多面な詩」としてあるのではないか。たとえば、次のような「残虐性」が、読む者に「厭戦」の感情をもたらしただろうことは想像に難くない。

 「しかし、それは嘘だ。彼女の心の奥の奥には、もっと違った、もっと恐ろしい考えが存在していなかったであろうか。彼女は、彼女の夫をほんとうの生きた屍にしてしまいたかったのではないか。完全な肉ゴマに化してしまいたかったのではないか。胴体だけの触覚のほかには、五官をまったく失った一個の生きものにしてしまいたかったのではないか。そして、彼女の飽くなき残虐性を、真底から満足させたかったのではないか。」(『芋虫』)

 「不具者」といった言葉も散見されるこの小説は、今となっては下手したら「差別小説」とも受け取られかねないだろう。だが、少なくとも作品のウェイトは、「芋虫」化した夫よりも、妻の精神が崩壊したかのような「残虐性」に置かれており、それが読む者に戦争のおぞましさを感受させる。

 だが、映画『キャタピラー』は、そうしたおぞましさからくる「厭戦」を超えて、明確にかつ積極的に「反戦」を主張しているように見える。およそストーリーとは直接的には関係しない、原爆や白骨死体の映像、空襲や死者の記事などが挿入され、ラストでは、聴く者を圧倒する元ちとせの歌が、感情を揺さぶるように流れてくる。

 だが、さらに「反戦」的なのは、久蔵による戦地での中国人女性のレイプと、出征前のシゲ子への暴力だろう。これらは『芋虫』には存在しない設定であり、あえて付け加えられているのだ。

 かつて、久蔵がふるったそれらの暴力の記憶は、帰還後にキャタピラーと化し自分では身動きがとれないなか、シゲ子に殴られ、また犯されることで、なまなましく久蔵の脳裏に回帰する。まるで、久蔵が四肢を失ったのは、自らの暴力に対する「処罰」を、無抵抗に受け入れんがためであるかのようだ。

 本作のチラシによれば、監督の若松孝二が、前作『実録・連合赤軍』から本作に向かったのは、「赤軍の若者たちが立ち上がった背後には、親世代の戦争責任を問い、再び戦争に荷担しようとする国家への怒りがあったはずだ」と考えていたからだという。だとすると、本作における久蔵への「処罰」には、吉本隆明にも似た、この先行世代に対する戦争責任の追及が見てとれるだろう。事実、久蔵が古井戸で自殺するシーンでは、絞首刑される戦犯の映像がそこに重ねられるのである。

 自ら行使した暴力が、復讐のように自分に返ってきては、いやというほど身体に刻まれること。「忘れるな、これが戦争だ……」。一見、本作のキャッチコピーは、夫婦を通して見えてくる戦争のおぞましさを告げているように見える。だが、こうして見てくると、それ以上に、肉体や精神に刻印されることで問われる「戦争責任」について言っているように読めてくるのだ。また、そこにこそ、『芋虫』にはない『キャタピラー』の「オリジナリティー」がある。

 ラストで「放心したように」「立ちつくしてい」る『芋虫』の時子と、戦争が終ったことに歓喜するシゲ子の姿は、何と対照的なことだろう。『芋虫』の時子のまぶたには、「映画のように」浮かんでは消える記憶があった。夫を責めさいなむ、抑制の効かない自己の残虐さや兇暴さについての「幻」のような記憶である。
 果たして、映画『キャタピラー』は、この「映画のような」「戦争」の記憶を凌駕し得ているか。

中島一夫