江藤淳とアジア主義

 「子午線」vol.6掲載の江藤淳論にはうまく組み込めなかったが、江藤は、すでに60年代に日本やアジアは「女」であり、そう捉える主体=視線は「男」であると、「性(差)的」に捉えていた。サイードジジェクを先取りするような視点であろう。

 都会育ちの江藤は、戦争中、勤労奉仕の際に初めて田んぼに入り、その泥の感触に「人にはちょっといえないような、肉感的な繡奮」を覚える。

いま考えてみると、あれは女性の感触に似ている。そのとき、変な話だが、私はああこれで自分を日本人になったのだなと感じたものであった。それは、どこか、ああこれでおれも男になったのだなというときの感覚に似ていたような気もする。だとしてみれば、モンスーン性の季候とそれに結びついた水稲作の文化は、私に女を感じさせるということになるのかも知れない。それが私にとってのアジアである。(「アジア志向の心理的現実」1965年7月)

 江藤にとって、日本やアジアは実体でも表象でもなく、「足の間になまなましく暖かく感じられる田んぼの柔らかい泥」の感触のような「もの」であり、しかも先の戦争と結びついていた「もの」だった。

 江藤は、この「感触」に、「日本人のアジア志向の根にひそむ心理的現実」を感受する。日本人は、モンスーンの影響の外にあるような北海道や東北といった「高緯度地方」にも、「水稲作という東南アジア型の農業形態を定着させてしまった」ために、たびたび冷害にも悩まされてきた。日本人の「執念」ともいえる「アジア志向」である。

このことは、日本人のかなりの部分が、先史時代に南シナや東南アジアから移民して来た人々の子孫だということと無関係ではないであろう。私は、だから大アジア主義が唱えられるたびに、ああまた妣の国を呼んでいるな、と思わずにいられない。しかし、日本の大アジア主義がつねに一種のロマン主義としてしかあらわれぬところに、すでに日本人がモンスーン地帯の北端に位置する列島に定住した北方民族になり切っているという歴史的事実が隠されている。この事実が、おそらく私にカルカッタやラングーンの季候を「厭な」ものと感じさせるのだろうと思う。

 江藤にとって、アジア主義はこの戦時中の「感触」抜きにあり得ない。それは、折口的な「妣の国」を呼ぶロマン主義である。それが日本を、繰り返し「女」という「もの」へと誘っている。

 江藤は、セイレーンのようなこの呼び声、すなわち戦前から天皇制と結びついていたアジア主義への誘いに、オデュッセイアのごとくそう簡単に抵抗できるとは考えていなかっただろう。だが、同時にそれを「厭な」ものとして退けようとしていた。江藤の思考を捉えるにはこのジレンマを見る必要があろう。天皇天皇制に対する江藤のスタンスについても、この両義的なジレンマを見逃すと、江藤が単純な天皇主義者にしか見えなくなる。それはまた、現在の天皇「志向」の風潮をも見えなくさせるだろう。

 先日も触れたように(http://d.hatena.ne.jp/knakajii/searchdiary?word=%A5%EA%A5%D9%A5%E9%A5%EB%A1%A2%C5%B7%B9%C4%BC%E7%B5%C1&.submit=%B8%A1%BA%F7&type=detail)、現在の天皇「志向」は、反米リベラル的なものとしてある。それは、アメリカの戦争に巻き込まれるなという反安保=反戦平和の「志向」であり、したがって「離米入亜」(中島岳志アジア主義』)のアジア主義である。共産主義圏なき冷戦終焉後、反米=反戦の受け皿はアジア=天皇「志向」しかなくなった。

 「子午線」の江藤論で論じたように、江藤は、単純な反米でも天皇主義者でもなかった。そのことは、アジア主義への呼び声に、「厭な」感触という一点で踏みとどまろうとしていた姿と別のものではないだろう。

中島一夫