『風立ちぬ』のタバコをめぐって

 『風立ちぬ』のタバコをめぐって議論が起きている。
 その喫煙シーンについて、日本禁煙学会からクレームがつき、今度はそれに対する反論が、喫煙文化研究会からなされたという。

 1970年に始まったWHOのタバコ規制活動以降、今や嫌煙運動はグローバル化し、それへの反発も幾度となく繰り返されてきた。いまだに、また今後も、タバコ問題はクリアに処理しきれないということだろう。

 だが、ここで言いたいのは別のことだ。日本禁煙学会から提出された要望書を読んでみると、一行目からもうつまづいてしまう。そこには、「1.「風立ちぬ」のテーマは、戦争はやってはいけない=命がいちばん大事だ、と言うことだと思います。私たちも心から共感します」とある。だが、本当に、『風立ちぬ』は反戦映画なのか。

 先日のレビューにも書いたが、http://d.hatena.ne.jp/knakajii/20130806/p1
この作品は、明確に戦争の技術であった零戦の設計から、いかに戦争の匂いを消し去るかという視点で作られている。そのために、文学の美化=神話化作用が導入されているのだ。堀越二郎堀辰雄の人生が「ごちゃまぜ」にされた意図もそこにある。

 私見では、いかに戦争の匂いを消すかということと、いかにタバコの匂いを消すかということとはつながっている。この作品の喫煙シーンで気になったのは、その頻度というより、煙の白さ=透明さである。それは、抜けるような青空に浮かぶ、白い雲や白い飛行機のように美しい。決して「紫煙」ではないのだ。

 学生同士や技術者同士でもらいタバコをくゆらせ合う。彼らは、戦争のためという「害毒」を脱色された、軽くて美しい飛行機をどこまでも追い求めていくという、純粋で一点も曇りのない青年たちの夢と熱意を共有しているのだ。

 結核の菜穂子の傍で二郎がタバコを吹かすという問題のシーンはどうか。
 「手をつないで」という菜穂子の求めに応じた二郎は、片手で図面を引けることをユーモアまじりに自慢しながら、「タバコ吸っていいかい?」と問いかける。寝たきりの菜穂子に寂しい思いをさせぬよう、夜通し仕事をするときも、片方の手を離そうとはしない二郎。

 だが、重要なのは、このとき二郎の方も、結核の菜穂子の吐く息を、微塵も気にしていないことだ(当時において)。ここでは、もはやお互いの息は、ともに匂いを感じさせないものになっている(菜穂子は、タバコの煙に咳ひとつしない)。そして、それを可能にしたのが、二人の美しく純粋な思いなのだ。だからこそ、菜穂子は、「美しい」まま「煙」のように消えなければならない。

 このように、戦争とタバコの匂いの無化に、堀辰雄の文学のイメージが不可欠だった。菜穂子が二郎のタバコの匂いを感じないこと。この菜穂子の承認を得ることで、堀越二郎の夢=人生が美化され、純粋化される。

 『風立ちぬ』は、「戦争をやってはいけない」という映画ではない。戦争の匂いをタバコの匂いとともに消し去り、日本人の技術や夢をいかに美しく見せるかという映画なのだ。

中島一夫