ももいろそらを(小林啓一) その2

(その1の続き)

 最初の30万円が、登場人物たちの中を転がっていく過程がうまい。金は、さまざまな比率・割合で分割・分配され、また貸し借りによって人物間を移動しながらふくれていき、その度に人間関係にパワーバランスの変化をもたらす。

 それは、フラットだったはずの三人組の関係をも債権債務関係に変容させてやまない(実際に借用書が取り交わされる)。それによって、彼女らは互いに負債感情を抱き合い、微妙な優劣と権力関係を発生させてしまうのだ。

 例えば、蓮実に「いづみと私とどっちがいいと思う?」と聞かれた「薫」は、最初「いづみ」と答えるが、その後の蓮実の健気な行動を見ているうちに、「今は蓮実の方が好き」といづみに打ち明ける。この作品では、一見チャラそうな財布の持ち主の佐藤が、実は純粋な同性愛者であることに目が行きがちだが、このように三人組の間にも、女子高生同士にありがちな擬似恋愛的な関係が見え隠れしているのだ。

 いづみたち三人に佐藤も加わって、いったい何が始まるのかについては措く。また、タイトルにもつながる、ラストの「ももいろそら」についても触れないでおく。ここでは、冒頭の、いづみが犯したという「何らかの罪」が、物語を駆動させる金の流れに関わっていることを指摘しておくにとどめよう。

 いづみは、出来事の顛末をふりかえって、自分が一番愚かだったことに気づく。蓮実も薫も佐藤も印刷屋も、狭い世界の中で自分なりに大切にしているものを持ち、それを軸にそれぞれのポリシーにしたがって小さいながらも行動を起こしている。

 一方いづみは、偽善と欺瞞に満ちた世の中をハナから馬鹿にし、「マイナス」を付けまくるだけで、自分から何ら行動することはない。釣り堀の中の「王」、水面に映った自分だけを愛しているナルシスト――。

 「バーカ」「バーカ」と騒音測定機に向かって世界を罵倒していたいづみの「バーカ」は、自分に跳ね返ってきて、自らにマイナスをつけただけだった。いらだちのあまり、釣り竿でバシャバシャと水面を叩くいづみは、まるでナルシスの水鏡を自ら叩き割ろうとしているかのようだ。いったん、金の流れに巻き込まれてしまった以上、高みから一方的に世の中を裁断することはできないのだ。

 さらに、金は移動しただけではなく、思わぬ形でいづみに利益をもたらすことになる。そう考えると、「何らかの罪を犯した/たぶんこれからも何らかの罪を犯すであろう」といういづみの言葉は、金を、単なる媒介(交換手段)ではなく、利潤をもたらす過程に知らず知らず加担してしまっていたことを後悔しているように読めるだろう。

 人々は、いづみのように、いつのまにか資本主義を始め、次々とそれに反復的に取り込まれてしまってきたのではなかったか。これは人類が背負った「原罪」であり、すなわち「バーカ」の声はわれわれの間で乱反射している。

 すると、「私は(善を求めることを)いまだにできないでいる」といういづみのつぶやきは、意外にも、青春映画の外観をはるかに超えた射程をはらむ言葉として迫ってくるのだ。

中島一夫