バンコクナイツ(富田克也) その2

 バンコクからラオスまで、バスに揺られながら、田舎の純朴な女性を求めて分け入って行く「金城」という男の存在が、その「構造の秘密」を体現していよう。金城は言う。「わざわざ出稼ぎに来るのなら、こっちから行けばタダって話ですよ」、「カネなんか払っているうちはまだまだですよ」。いわば金城は、自らバスで移動する「世界資本主義」の商人である。

 金城はしかし、あからさまなだけなのだ(ゆえに、構造をはっきりと示す矢印のようだ)。日本人だけではない、フランスからもドイツからも、先進国の人間は、圧倒的な経済格差を背景とした「遊び」を、すなわち「楽園」を求めて、そこにやってくる。

 だが、たまにやってくるから「楽園」なので、そこに住みついてしまえば、たちまちそれは「楽園」ではなくなる。「外側にいるうちは楽園でいてくれるんですよ」、「どこに行っても植民地だった」というわけだ。 

 本作はそのなかで、構造的に隔てられたタイ、ラオスと日本との間に連帯=恋愛は可能かというテーマを投げかける。物語は、今やタニヤ通りの店「人魚」のNo.1ラックと、元自衛隊員でかつて彼女の「馴染み」だったオザワが、偶然に再会することに始まる。

 ラックは、故郷ノンカーイの家族のために、そして再び家族が仲睦まじく暮らせる家を建てるために、日夜働いては仕送りをするが、その金はラックの母の麻薬漬けを深刻化させるばかりだ。今や母は、ラックの弟と妹を無理矢理祖母たちから引き離し、三人だけで別居している。ラックが稼げば稼ぐほど、家族はバラバラになっていくのだ。

 オザワはオザワで、ともにカンボジアPKOに派遣された自衛隊時代の上官「富岡」に、東南アジアの日本人向け「現地妻付き介護老人ホーム」事業のための不動産調査を依頼され、ラオスの街バンビエンへと入っていくのだ。富岡が言うように、「商人でも政治家でもなく、まず軍人が入っていく」。商人(=経済)はその(=戦争の)後だ。タイの歓楽街が、まずベトナム戦争の米兵のR&R(レスト&レクリエーション)のために作られたように(R&R条約締結は1969年)。そしてそのあと、日本をはじめとする先進国の住人が、「楽園」を求めて田舎にまで進出していったように。

 かつて江藤淳吉本隆明は、PKO派遣に際して「国際貢献なんていう理念で死ねるわけない」と言った。当然彼らは、従来の軍隊が、あくまで「国家のために死ねる」という民族=国家の論理を支えとして機能していたことをふまえてそう言ったわけだ。だが、冷戦が終焉し、「国家のために」ではなく「国際貢献」という名のもとにPKOが派遣されるとき、ではその理念は「死」を支えることができるのか。そうでないならば、それは「死」を思考することを、あらかじめ回避している理念ではないのか。

 さらに言えば、国際貢献=PKOは植民地主義ではないといえるのか。そして、植民地主義は「女を買う」ことを招き寄せてしまうのではないか。実際、オザワらはカンボジアPKO時代から女を「買って」きたのである。ならば、どんなに純粋に愛し合おうとも、オザワとラックは一貫して「買う―買われる」関係の延長にある。作品が突きつけるのは、個々人の善意や愛情にはかかわりなく、どうしようもなく生起してしまう、この構造なのだ(ラックのビンタ!)。

 終盤、そのからくりに気づかされたオザワは、「俺、だまされちゃってたなあ」、「俺分かったよ。もうラックにお金払わないよ」とその悪循環の関係を断ち切ろうとする。だが、金を払わなければ、「構造」から免れられるのだろうか。

 なるほど、「カネなんか払ってるうちはまだまだ」と嘯く金城は金を払わない。金城は、まだ「崩壊していない母=自然」(江藤淳『成熟と喪失―“母”の崩壊』))を渇望するように、タイの田舎やラオスの女性を追い求めていく。だが、いくら金城がラオスの女性に、いまだ金に汚染されていない自然を見ようとしても、相手は金城を「金」(城)としか見ていないだろう。

 オザワが金城にぶつける「お互いに日本人でよかったね」というセリフは、そうした構造からくる不可避的な非対称を指している。あくまで「お互い」と言っている以上、オザワ自身その構造から免れ得ないことを痛感している。オザワのこの言葉は、自らにはねかえってくるイロニーでしかないのだ。

 だが、さらに言えば、資本制のもとで労働すること自体が、男女や人種問わず、自ら労働力商品としてカラダを売っていることではないのか。現に、日々年々、労働者はカラダを毀損させていくほかはない。

 「女」を買う「男」自身も買われているということ。この構造を見ないならば、いつまでたってもわれわれは、偽りの戦争や闘争を戦わされるだけだろう。もちろん、その1で述べたように、世界資本主義は一国的に機能するほかないので、必ずや差別―被差別を軸に偽りの戦争が生起してしまう。だからこそ、この作品は、表面的な物語や個々の登場人物ではなく、人物たちが囚われている、自分たちには見えない構造を見せようという、この上ない困難に挑もうとするのだ。

 ラスト近くでオザワは銃を手に入れる。だが、ついに作中でそれが撃たれることはない。彼自身、何を撃っていいのかわからないからだ。銃を手中にしながら、その後登場すらしない映画が、いまだかつてあっただろうか。

 彼は金城を「射殺」する真似をするが、何人の金城を撃っても、何の解決にもならない。ラスト、オザワは、結局タニヤ通りで客引きをすることになる。一見これは敗北に見える。だが、そもそもオザワはヒーローではないし、繰り返せば、問題はオザワ個人ではないのだ。

 オザワを映していたカメラがふいに上昇し辺りを俯瞰するとき、またそのカメラが、そのまま田舎のラック=「女」の炎をじっと見つめるとき、われわれは何が問題なのかをはっきりと理解する。カメラは、この両者を分け隔てさせるとともに離れさせてもくれない、あの構造を見つめている。そして、真に銃を向けられるべきは「これ」なのだと、確かな手ごたえとともに伝えているのだ。

中島一夫