さらば、愛の言葉よ(ジャン=リュック・ゴダール) その2

 そして、この「自然」と「隠喩」の関係こそ、言葉の表象=代行機能の核心なのだ。どういうことか。それはAをAでは表すことができないという単純な事実による。Aとは何かを表現するためには、Aとは別なる言葉Bでもって「AとはBである」(A(シニフィアン)=B(シニフィエ))と言い表さなければならない。

 このとき、BはAではないにもかかわらず両者は「=」で結ばれるのだから、BはAの広義における「隠喩」であると言ってもよいだろう。言葉は、この「AはBである」という表象=代行の構造を逃れられない。

 もちろん、言葉が代行であり「隠喩」でしかない以上、ついに「自然」に到達し得ない。したがって、この「自然」を「隠喩」で代行するという言葉の表象機能は、反復されるほかないだろう(シニフィアンの連鎖)。

 重要なのは、繰り返せば、ゴダールが決して表象以前の「自然」や現実を指し示せるとは考えていないことだ。ゴダールはインタビューに言う。「例えば「自然には裸など存在しない。動物は裸ではない。なぜなら彼らは裸だから」。もし私が批評家だったら、良く分からない、と言うだろうね。あるいは、分かっているのかどうか確信がない、と。裸だから裸じゃない……。しかし同時にそれで、少し変なことが言えるし、脱線できるし、それで十分なんだ」(『ユリイカ』1月号)。

 言葉の表象=代行作用について、「少し変なこと」を言うことで、われわれがあまりにも自明に「従って」いるものを「脱線」させること。

 こうした目論見は、言葉の表象=代行作用の失調を感受するところに生まれる。「ある単語を他の単語で置き換えることはできない」とか、「シネマ、それは現実の複製ではない、現実の忘却なんだ」と言うとき、ゴダールは表象=代行作用そのものを信じていない。

 そして、それはむろん、民主制の表象=代行の問題でもあろう。

 ゴダールは先のインタビューで、「現在ヨーロッパで起こっていることに、何かひとことあるか」と聞かれ、こう答えている。「国民戦線がトップに立つといいと思うよ。オランド大統領はマリーヌ・ル・ペンを首相に指名するべきだね。(中略)それで少しは動きが出るだろう。例え本当に行動しなくとも、そのふりをするためにはね。何もしないふりをするよりはましじゃないかね」。

 シャルリ・エブド襲撃事件以降の文脈においては、「国民戦線がトップに立つといい」という発言は挑発的にすぎると受け取られるかもしれない。だが、いわばゴダールは、国民戦線を「支持」はしないが「肯定」すると言っているのだ。

 この「支持」と「肯定」の危うい間隙を感受できなければ、何を言っても、結局はヨーロッパ=代表制に「従う」ことになる。いわば本作は、この「さらば国民戦線」と「こんにちは国民戦線」との間隙に賭けられている。「例え本当に行動しなくとも、そのふりをするためには」、せめて事態に「動き」をもたらすよう言葉や視覚を「脱線」させ、「少し変な」映像を差し出す必要がある――。ゴダールはそう言っているように思える。そして、「さらば言葉よ」ならば、言うまでもなく、今度は「行動」が問われることになるのだ。

中島一夫