マンチェスター・バイ・ザ・シー(ケネス・ロナーガン) その2

 必要以上に精神分析的に作品を「読んで」みたのも、ほかでもない、どうやら精神分析は「終焉」したらしいからだ(『表象11』ほか)。この作品が、どこか「安心」して見られるのは、このように主人公が、トラウマを抱えた典型的な精神分析的主体だからでもあろう。

 そして、それはまた、マンチェスター・バイ・ザ・シーという街が、アフリカ系もアジア系もほとんどいない、白人労働者ばかりの街でありながら(本作には今どきのハリウッド映画としては珍しく白人しか出てこない)、今回の米大統領選でトランプの得票率が27.6%にとどまった稀有な場所であることと無関係ではないだろう(クリントンの得票率は64.9%)。

 監督はインタビューに言う。「米国で労働者の街はほとんどが実に崩壊状態にあり、(グローバル化で)どこも似たような街になっているが、米国で最も古い港のひとつであるマンチェスターはまれなことに、歴史的な景観を保っている」、「だからこそ、私はこの地域とそこで暮らす人々に関心を抱き、そのありのままを映画にしたいと思った。本当の物語を語ろうとしたんだ」。

 もちろん本作は、大統領選以前に撮られているし、そもそも何か政治的なメッセージがこめられているわけでもない。だが、いまだ残存している(漁業)労働者の街における精神分析的な主体という、二重に「過去の遺物」を映し出そうとしている点で今や貴重な作品だと言ってよい。「本当の物語」は「過去の遺物」にしかないとばかりに。

 二〇〇〇年代になって、たて続けに『共産主義黒書』と『精神分析黒書』が出たのを受けて、ジジェクは、マルクス主義精神分析とは「否定的な形で」「深いところで連帯している」と言った(『ラカンはこう読め』)。彼なら、精神分析の終焉、ポスト精神分析といった現在の言説に対して、いやラカンは「フロイトに帰れ」と言ったではないかと言うだろう。そんな言説は、労働者や階級をお払い箱とする現状肯定の勢力に加担するものとなっていくに決まっている、と。ラカンの言葉は、「フロイトが言ったことに帰れという意味ではなく、フロイト自身も十分に気づいていなかった、フロイトによる革命の核心に回帰せよという意味だった」はずだ、と。

 階級は終焉、消滅したのではない。それは「階級無意識」(ケネス・バーク)的なものとして潜在している。だが、マルクス主義の機能不全によって、それは「目的意識的」(レーニン)に「階級意識」化(ルカーチ)しなくなっており、代わりに「自然生長的」な「消費者=お客さま」として表象=意識化させられている。日頃いくら職場で抑圧されていようとも、お客さまとして重んじられる一瞬で溜飲を下げる――。まさに「消費者主義」とは、階級を無化する統治のイデオロギーなのだ。

 本作は、自らのトラウマによって土地を離れ、ボストンでの便利屋稼業を余儀なくされているリーが、雪の下に何かを探すように雪をかくシーンに始まり、パニック障害に悩まされる甥とともに釣り糸を垂れるシーンに終わる。それはまるで、無意識と下部構造という垂直性において「深いところで連帯している」、精神分析マルクス主義のようでもある。

中島一夫