何者(三浦大輔)

 就活とSNSは似ている。
 分かりやすく短い言葉(キーワード)で、的確に自分を表現し、承認を得る。ツイッターは140字で、面接は1分間で、自分が「何者」かを語る。今や政治もワンフレーズだ。

「いつからか俺たちは、短い言葉で自分を表現しなければならなくなった」。「ほんの少しの言葉と小さな小さな写真のみで自分が何者であるかを語るとき、どんな言葉を取捨選択するべきなのだろうか」。

 タイトルの「何者」とは、まずもって、この「短い言葉で自分を表現しなければならなくなった」社会の総体を捉えた、まさにキーワードだと言えよう。ツイッターの表象空間や、それと地続き(と本作では捉えられる)就活空間にいる者たちが、「何者」かになろうともがきながら生きている。現在とは、表象空間への参入に成功し、「何者」かになれるかなれないかをめぐる、dead or aliveなのだ。

 本作の登場人物たちは、それぞれの事情で大学5年生をやっている。新卒採用ベースの就活において、この一年の「遅れ」は、必ず説明を求められる「徴」だ。だから、たかが一年の遅れが、焦りや気遅れになる。これは、そんな「何者」未満の大学5年生5人の物語である。

 語り手「拓人」(佐藤健)と同じ劇団の「二枚看板」だった「烏丸ギンジ」は、今は自分の劇団を立ち上げ、ネットでは「いつまでたっても学生劇団ぽい」と叩かれながらも、月一回のハイペースで公演を続けている。彼は最後まで作品には登場しない。拓人が「監視」し続けるツイッターの画面以外には。

 この、最後まで本人が登場しない構造は、原作の朝井リョウの代表作『桐島、部活やめるってよ』と同じものだ。名前も「k」i「r」i「s」hi「m」aに対して「k」a「r」a「s」u「m」a。「桐島」が生徒全体の自我理想であり精神的支柱であったとしたら、この「烏丸ギンジ」は、拓人が就活で見失ってしまった、あり得たかもしれないもう一人の自分である(以下、小説版と映画版を区別しない)。

 拓人は、ツイッター≒就活空間にどっぷりはまり、その沼から抜け出せない。彼にとっては、「表象=表現」されたものは、見せるための「嘘」でしかない。「面接って、確かに自分が持ってるカードを出していく作業みたいなもんだろうけど、どうせどんなカードでも裏返しで差し出すんだよ。いくらでも嘘はつけるわけだから。まあ、もちろん嘘だってバレたらおしまいなんだけど」。彼にとっては、表象は「嘘だとバレたらおしまい」の「嘘」なのだ。だからこそ、本音を吐き出すために、裏アカを必要とすることになる。

 ここでは、常に本音は別にある。「ほんとうにたいせつなことは、ツイッターにもフェイスブックにもメールにも、どこにも書かない」。そうだ、表象は表象にすぎない。それは真実ではない。にもかかわらず、「そういうところで見せている顔というものは常に存在しているように感じるから」、いつのまにか相手は、本音を「隠された」と感じるようになってしまう。

 あるとき拓人は、同居人の「光太郎」(菅田将暉)が、成績証明書が必要になる最終面接にまで進んでいたことを知って、うろたえる。「ツイッターフェイスブックもメールも何も無ければ、隠されていたような気持ちにはならなかったかもしれない。ただ話すタイミングが無かったんだ、と、思えたかもしれない。だけど、日常的に光太郎のことを補完してくれるものがたくさん存在してしまうから、意図的に隠されていたような気持ちになってしまう」のだ。

 気軽に手軽に、140字で自分を表現できるのに、なぜしない? ここでは、沈黙は罪であり裏切りだ。今や古典的な言葉だが、ロラン・バルトは、ファシズムとは、「何かを言わせまいとするものではなく、何かを強制的に言わせるもの」だと言った。そのような意味で、ファシズムは静かに、だが着実に進行している。

 嘘のカードを見せあっているつもりでも、それこそが「自分」が「何者」かを表す言葉=キーワードになっていく。ツイッターもまた表象である以上、このような代表制が機能するのは必然だろう。

 だが、そのように、「自分」が「何者」かとしてキャラ化、アイコン化できたとして、それは本当に「何者」かになれたということなのだろうか。拓人は、「理香」(二階堂ふみ)に、メールアドレスから辿られ自らの裏アカを突き止められ、恐慌を来たす。

「だってあんた、自分のツイート大好きだもんね。自分の観察と分析はサイコーに鋭いって思ってるんもんね。どうせ、たまに読み返したりしてるんでしょ? あんたにとってあのアカウントはあったかいふとんみたいなもんなんだよ。精神安定剤、手放せるわけないもんね」
「いい加減気づこうよ。私たちは、何者かになんてなれない」

 ここに、「何者」というタイトルにこめられた二重性が表れていよう。すなわち、この表象空間において、「何者」かになれたとして、まさにそれは顔のない“何者”でしかないのではないか。それはバレない限りの虚像であり、隠れたいのに、でも見てもらいたいという、奇妙な「何者」かである。

 こうして、現在のワンフレーズの表象空間は、「何者」なのか分からないモノへと我々を不断に駆り立てている。この空間が支配的なところでは、そうした「何者」かよく分からないモノにすらなれない「何者」未満の者は、端的に死=無でしかない。だが、時にそれは、今回の大統領選のように、「代表制」のもとで、突如として蘇生する。あたかも、無数の裏アカが露わになったかのように。

中島一夫