AI的リアリズム

 先日の記事(11/8)で書いた「移人称小説」について、もう少し。

 渡部直己が言うように、作中で人称や視点が切り替わる「移人称小説」は、「「私小説」を育んできたような描写の持続的覇権が、これを拒んできた」ために、「たやすくは「露出」してこなかった」ということだった(『小説技術論』)。近代リアリズムの「描写」という「技術」が、言説のリアリティを担保していたからだ。

 もちろん、それは複製技術に即応した「技術」だった。描写によってうつし替えられた風景や事物に、オリジナルさながらのリアリティがなければ、それは有効性をもたない。リアリズムのリアルとは、あらかじめある自然ではなく、人工的な「技術」によるレトリカルな効果なのだ(柄谷行人の言う「風景の誕生」)。

 その後リアリズムは、技術の更新に伴うリアルの変容によって、例えば「まんが・アニメ的リアリズム」(大塚英志)や、「ゲーム的リアリズム」(東浩紀)のように更新されてきたが、むろんそれもまた、その名の通りリアリズムであり、オリジナルがコピーされる「等価交換」の原理(異質なaとbとが「等価」と見なされるのは、aの価値がbに複製され転移されていると見なされているからともいえよう)によってリアリティを担保する技術であることに変わりはない。

 そのように考えると、「移人称」もまたリアリズムの変種と捉えることもできるのではないか。例えば、SRシステム(Substitutional Reality=代替現実。被験者のリアリティが視覚的に操作され、現実か虚構かわからなくなるシステム)の研究者である脳科学者の藤井直敬はいう。

幽体離脱はSRシステムを使えば簡単にできます。さっき見てもらった映像は、カメラで過去に撮った同じ視点からの過去の映像だったけど、カメラをそのへんに置いてそのライブ映像を見せると、自分がそっちに行って自由に見渡せるので自分の視点がそっちに移っちゃうんですよね。」

「自分の身体は元の場所にあるけど、視点からは自分が見えるから、分離しちゃうんですよ。カメラの位置を何カ所かに動かしていくと、自分ではない別のところに自分の視点が持っていかれたまんまになっちゃって、それをずっと繰り返していると、部屋に自分が充満したような気になってしまう。神っぽい視点になってしまうんです。」(海猫沢めろん『明日、機械がヒトになる』におけるインタビュー)

 藤井氏は、SRの効果を、他者との「共感能力が、ひとつ違ったレベルになってくる」ことだと言う。すなわち、SRは、先日の記事で述べたように、「描写の衰退=市民社会の衰退」によって、もはや「間=穴」だらけになり、お互いに「共感」するのが困難になっている現在の市民社会を、「ひとつ違ったレベルで」縫合する「技術=システム」だといえよう。むろん、そのとき視点=人称は「操作」されており、人間はその代替現実を「現実=リアリティ」として思いこまされているわけだ。

 すると、「移人称小説」とは、そうしたSRのような「技術」によって変容しつつある「現実」を、リアリズムという「技術」によって捕捉した試みだと考えられよう。「SR的」あるいは「AI的リアリズム」? いずれにせよ、それはリアリズムの衰退ではなく、その都度「更新」されてきたリアリズムの一形態にすぎないと捉える方が、より近代文学の総体を俯瞰する視点が開けるのではないだろうか。

 問題は依然として「リアリズム」そのものなのだ。マルクス中村光夫が言ったように、資本主義は自分の姿に似せて世界を変革してしまう。等価交換の原理に「似せ」たリアリズムは、今後も技術の更新に「似せて」、「〜的」「〜的」と更新されていくだろう。

中島一夫