中村光夫、三島由紀夫、転向 その2

 中村との対談の二年前、一九六五年から、三島は「太陽と鉄」という、自称「告白と批評との中間形態」を発表し始める。冒頭はこうだ。

 

このごろ私は、どうしても小説という客観的芸術ジャンルでは表現しにくいもののもろもろの堆積を、自分のうちに感じてきはじめたが、私はもはや二十歳の抒情詩人ではなく、第一、私はかつて詩人であったことがなかった。そこで私はこのような表白に適したジャンルを模索し、告白と批評との中間形態、いわば「秘められた批評」とでもいうべき、微妙なあいまいな領域を発見したのである。〔…〕私が「私」というとき、それは厳密に私に帰属するような「私」ではなく、私から発せられた言葉のすべてが私の内面に還流するわけではなく、そこになにがしか、帰属したり還流したりすることのない残滓があって、それをこそ、私は「私」と呼ぶであろう。

 そのような「私」とは何かと考えるうちに、私はその「私」が、実に私の占める肉体の領域に、ぴったりと符合していることを認めざるをえなかった。私は「肉体」の言葉を探していたのである。(「太陽と鉄」)

  

 読まれるとおり、明らかにこれは「私」小説=告白への疑いによって書かれたものだ。「私が「私」というとき、それは厳密に私に帰属するような「私」ではなく」、その「残滓」をこそ「私は「私」と呼ぶ」。ここには明確に「私」小説批判があろう。

 

 ひょっとすると、この「残滓」という言葉には、小林秀雄私小説論」の「私の封建的残滓と社会の封建的残滓との微妙な一致の上に私小説は爛熟して行った」が踏まえられているのではなかろうか。小林にとっては「私小説」の「私」とは「封建的残滓」にすぎず、それはマルクス主義という「絶対的な」思想によってすでに乗りこえられた。「私小説は亡びた」のだ。

 

 それに対して、「太陽と鉄」の三島は、言葉というファクターを考えれば、「私」=私という図式も、それを封建的として乗りこえることも、そもそも不可能ではないかと言っているわけだ。むしろ、「私」と言ったとき、それから漏れ落ちる「残滓」にしか「私」はない、と。すなわち、三島にとって、「私」という言葉は、まったく私を「表象=代行」し得ないものであり、本来「私小説」などあり得なかった。その言葉の「表象=代行」作用の不全が、三島をして、「太陽と鉄」による「肉体の言葉」を「私のsecond Language」として形成させていくことになる。

 

 このとき三島は、中村の私小説批判や、言葉の「仮構」の問題に漸近していたといってよい。中村との対談『対談・人間と文学』でも、三島は、中村が「仮構と告白」で「現実はこれを言葉で精細に表そうとすればするほど、筆者の創作になって行くという性格を帯びてくるので、現実の生き生きした再現とみられる文章は必ず仮構なのです」と書いているのを受けて、次のように言う。

 

私小説はそのパラドックスを十分狙ったものだけれども、こんどわれわれが逆手をやろうとするとまた問題が起きてくる。逆にいうと、「創作は言葉で精細に表そうとすればするほど事実となってあらわれるという性格を帯びてくる」とはいえないでしょう。そうなると実に言葉というものと関係ができてきちゃう。芸術ということをまず考えて、虚無を言葉で精細に表そうとすればするほど筆者の現実になってゆくということがほんとうに信じられれば、そこで勝つわけだ。だけどそれがどうしてもそうゆかないわけよ。逆のほうは相対的に成功したわけだ。つまり現実は言葉で精細に表そうとすればするほど創作になってゆくという点で私小説がかりにも芸術になっちゃった。

 

 ここで言われているのは、二葉亭四迷の言った「実相を仮りて虚相を写し出す」という模写の問題だろう。言うまでもなく、中村のリアリズム批判の根底にある認識である。この時期の三島は、二葉亭-中村とほぼ問題を共有していたといえる。だから、「ぼくは昔から芸術至上主義といわれてきましたけれども」「芸術至上主義というと私小説で、ぼくのような考えは芸術至上主義の反対でしょう。むしろ芸術侮辱でしょうね」と言った。この「芸術侮辱」もまた、二葉亭―中村の「文学否定」と別のものではない。

 

(続く)