小説技術論(渡部直己)

小説技術論

小説技術論

 この批評家による近作である本書と『日本小説技術史』とを、今ひとつ自らの関心に引きつけあぐねていたが、最近ようやくそれが見えてきた。

 本書冒頭の「移人称小説論――今日の「純粋小説論」について」で、渡部は「一種の「ブーム」のごとく、キャリアも実力も異にする現代作家たちによる作品の数々が、その中枢をひとしく特異な焦点移動に委ねるという事態」を指摘し、それを「移人称小説」と命名する。だが、それは、横光利一が「純粋小説論」(1935年)で提唱した「第四人称」問題の反復(あるいは変奏)ではないかと論じるのだ。

 とりわけ渡部は、横光に対する勝本清一郎の反論に注目する。「従つて第四人称設定の問題は、結局、第一人称小説(乃至は一元描写小説)と第三人称小説との、露出したる複合形式の提唱として解されるべきが本当である。さう解釈されさへすれば、問題は極めてやさしく受け取れるのである」(純粋小説とは?」)。

 これを受けて、渡部は次のように論じる。

にもかかわらず、当時より久しく、その「複合形式」がたやすくは「露出」してこなかったのは何故か、と。それこそ「私小説」を育んできたような描写の持続的覇権が、これを拒んできたからだ。描写は、ある次元では、言葉の再現=反映機能をみたして作中もっとも安定した機会となる。対して、勝本のいう「複合形式」は、人称構造にいわば恒常的な不安定を導く。ゆえに、同一の作品内に両者は馴染みようがない。

 要は、「描写」と「人称」とは水と油で相性が悪く相克的なものだ、したがって、現在の「移人称」ブームも、その「起源」たる横光の「第四人称」同様、描写の「減衰」を背景にしているのではないか、と。

 ならば、この問題は、これまで社会を包摂していた資本が社会から撤退し、それにともなって市民社会が「減衰」、人的資本主義と化した現在と重ね合わせて捉えるべきだろう。

 おそらく描写の衰退(とそれによる移人称)とは、市民社会の衰退なのだ。いまや労働力は、社会(正規社員)にではなく、その「外=間=穴」(非正規、フリーター、ルンプロ)へと落ち込んでいる。「移人称小説」とは、「穴」だらけで飛び地と化した、衰退しつつある社会を転々としながら、何とか依然として社会が機能しているように装おうとする、「不安定性」(プレカリティ)の小説=労働ではないだろうか。

 沖公祐は、恐慌期には、このように資本が社会から撤退し、社会が「間」と化していくと述べる。

すなわち、恐慌から不況期にかけては、解雇による債権債務関係の解消と雇用の非正規化による債権債務関係の縮小・短期化が進行する。かくして恐慌後に到来する世界(不況期)は、債券債務関係が皆無とは言えないまでも、きわめて希薄化した世界であり、市場(交換)の論理が支配する「間」に近似した世界である。現代のいわゆる慢性的不況において生じているのも、このような社会(ゲマインヴェーゼン)の内部から「間」への回帰にほかならない。(「制度と恐慌」『情況』2013年6月別冊)

 つまり、1930年代の世界恐慌と、「現在進行中の世界恐慌」においては、資本が社会と社会の「間」へ回帰しようとする傾向を共有しているということだ。渡部が指摘する、1930年代の横光「第四人称」を想起させる現在の「移人称」も、そのような文脈で捉え直すことができよう。

 社会が衰退すると、それこそ「描写のうしろに寝てゐられない」(高見順、1936年)のである。渡部も言うように、描写とは「言葉の再現=反映機能をみたして作中もっとも安定した機会となる」、すなわち言葉の表象=代行機能が円滑に機能する、安定した社会を土台とする「技術」だからだ。

 さらにここから、横光が「純粋小説論」で論じる「偶然性」と、沖の言う「偶然性の唯物論」(「間という外部」)とを重ね合わせてみたい誘惑に駆られるが、それについてはまたいずれ。

中島一夫