大衆天皇制論と共和国

 松下圭一の高名な「大衆天皇制論」(1959年)は、一見大衆天皇制の社会学的な分析に終始しているようで、読み直してみると、その「続編」(「続大衆天皇制論」)では、大衆天皇制への抵抗として、共和制がかなり積極的に掲げられている。

状況としての大衆天皇制への抵抗は、まず日常の生活関係を「共和国」として再構成することからはじまるだろう。君主制は、「何ものか」を中核として想定し、それへの没入・耽美・従属する意識構造に基礎をもっている。天皇制をめぐって問われているのは、地球規模でひろく古代以来みられるこの基礎意識なのである。それゆえ、政府ないし国家からの、市民の自立ついで自治・共和という政治イメージの確立が不可欠となる。私たちの日常の生活関係の共同体性・階層性つまり君主制型構造を、共和国型構造へと改造しうるか否かが問われているのである。日常の生活関係のなかに種々多様な「共和国」の造出がなければ、大衆民主主義の今日、「体制」への抵抗感覚は生まれない。

 SMAP騒動は、メンバーが、事務所を自由にやめたり独立したりすることを許されない、すなわち近代的な「二重に自由な労働者」(マルクス)ではないことを今更ながら暴露した。いまだにこの国には、至るところに「半封建的」なものが残存している。彼らは特殊な業界の住人だと言われるが、まさに「半封建的」とは、その「特殊」性そのもののことなのだ。

 松下は、大衆天皇制が「半封建的」なものを払拭しきれるとは思っていなかったのだろう。だが、「大衆天皇制論」の抵抗線としてあった「君主制型構造」から「共和国型構造」への転換は、それが「日常の生活関係」に戦線の基軸が置かれたために、グラムシ主義的な陣地戦として展開され、その後「〈市民〉的人間型の現代的可能性」(1966年)の着目へ、さらに「シビル・ミニマムの提起」(1980年)へと帰結せざるを得なかった。戦線が「日常性」へとシフトすると(もちろん、機動戦が不可能になったからこそ、そうなることを余儀なくされたわけだが)、途端に批評性が危うくなるのは、「大衆天皇制論」を読み替えていった津村喬などについても言えるだろう。

 松下の、抵抗としての「共和国」という発想は、むしろ映画論において津村とヘゲモニーを争った蓮實重彦の方に受け継がれている。「日本の戦後民主主義が幻想化していったのは、共和国の発想がなかったからだ」(『エナジー対話 フランス』1983年)。

 むろんここで蓮實は、フランス第二共和制から第二帝政期の問題を念頭に発言している。だからこそ、「日常性」ではなく、言説や政治における「表象=代行」制に稀有に向かうことができた。蓮實のキータームたる「凡庸」とは、まずもって日本の言説空間への「共和制」導入の目論見であり、極めて政治的な概念だったのだ(この点については、先日あるところで蓮實重彦論として論じた)。

 このたびのSEALDsをはじめとする安保法制反対運動を「共和主義的」だと言う者がいるが、違うだろう。そこでは、天皇制がまったく不問に付されているからだ。この国で「共和制」を言えば、それがまずもって君主の問題に関わる以上、天皇制に抵触することは避けられないだろう。

(中島一夫