アダムズ・アップル(アナス・トマス・イェンセン)

 スキンヘッドの「アダム」は、仮釈放後、更生プログラムでデンマーク田舎の教会にやってくる。部屋にヒトラーのポスターを貼るほどネオナチ思想に染まり切った彼は、牧師の「イヴァン」(マッツ・ミケルセン)の言うことを、はなから受け入れる気がない。ああ、だんだんアダムがイヴァンに信仰を説かれ更生していくんだな、と高をくくっていたが、まったく違った。

 

 イヴァンはアダムを信仰に向かわせるどころか、逆にアダムに信仰を失わせられる。本作は『ヨブ記』をベースに展開するが、ヨブの友人同様、アダムは次々にイヴァンへと降りかかる災難があまりにも悲惨なので、彼が何か隠れた罪を犯したに違いないと、イヴァンに悔い改めを迫る。当初、イヴァンは認めようとしないが、次々に降りかかる災難の中で、アダムへの反論の根拠が自らの中で徐々に見いだせなくなっていく。「愛する神が、なぜ人間に災いをもたらすのか」、「神よ、なぜあなたは私を見捨てたのですか」。

 

 この作品は、イヴァン=ヨブが神を見失い「転向」する物語である。ただ、その描こうとするところはそう単純ではない。イヴァンは、いったい神が自分に何を求めているのかがついに分からない。イヴァンはアダムに「神に試されている」と盛んに説くが、その実、神=大文字の他者の欲望が見えない牧師なのだ。

 

 アダムは、イヴァンに因果応報を突きつけ沈黙させるが、そのときはじめて重要なことに気づく。イヴァンが自分や子どもにどんなに過酷な苦難にあっても、それらを「応報」とはとらえず、ひたすら「神に試されている」と説く。アダムはずっとこのイヴァンの姿勢を、あたかも「狂人」のようにしか見ていなかった(観客も概ねアダムに共感していただろう)。

 

 だが、イヴァンが信仰を失って沈黙し、ふさぎ込んで誰とも話さなくなってしまうと、慌てたように周囲にイヴァンと話すよう促すのだ。アダムはイヴァンに同情したのではない。このとき、イヴァンが「正しかった」ことを突如理解したのだ。どういうことか。

 

 おそらく、これは『ヨブ記』最大の難問に関わる。『ヨブ記』で最も躓くのは、神を疑ったヨブを、神は「正しい」と言う場面だ。さらに返す刀でヨブの友人たちに怒りを燃やす。「君たちは、わたしに向かって、わが僕ヨブのように正しいことを語らなかった」。いったい神は何を言っているのか。何度読み直してもわからない。おそらく、ヨブが神を理解できなかったように。

 

 では、果たしてヨブは、沈黙する前は神を理解できていたのだろうか。いや、おそらくは理解しないままに信仰していたのである。イヴァン=ヨブが、どんなに過酷な苦難に見舞われようとも、それを苦難として受けとめなかったのは、そこに何か意味や理由が、すなわち「応報」を見出していなかったからだ。だからこそ、次々に起こる悲惨な出来事にも立ち向かえたのである。だが、神を信じていなかったアダムには、その姿が狂っているようにしか見えなかったのだ。

 

 もし、苦難を過去の報いだと受け止めてしまえば、神の与える苦難を、人間がその意味や理由を理解できる程度のものに格下げしているも同然である。また、自らの過去に原因があるなら、結局はすべて自分の問題であり、そこに神が介入する余地はない。

 

すると、神の理解不可能性に躓くイヴァン=ヨブこそは、最も神を理解していたことにならないか。神がヨブは「正しいことを語った」と言ったのはそのためだ。苦難を因果応報と捉えるのは、神の矮小化なのである。

 

 イヴァン=ヨブは、神を理解不可能なまま信仰する決断主義者なのだ。『ヨブ記』の神は、信仰とは決断主義だと説いているのである。それは反信仰と言ってもよい。神を信じるとは、最も神を信じないことなのだ。その態度だけが、まっさらに「苦難」に立ち向かい事態を変え、すなわち革命を可能にする。アダムは、突然そのことに気づくのだ。ラストでアダムが焼き上げるアップルケーキは、それが「神に試されている」という言葉の真意であることを知った者への恩寵である。

 

中島一夫