終戦のエンペラー(ピーター・ウェーバー)

 冒頭、戦後にマッカーサートミー・リー・ジョーンズ)の部下としてGHQで働くことになるフェラーズ(マシュー・フォックス)が、大学時代にアメリカのキャンパスで見そめた「アヤ」(初音映莉子)を、竹やぶの奥まで追いかけていく。彼は、「日本」という藪の中に深く入り込むことになる。

 占領後の日本の統治を託されたマッカーサーは、あえて天皇を処刑せずに、天皇制の支配構造をそのまま利用した。本作は、その政策決定のベースに、日本通として知られるフェラーズのレポートが大きな役割を果たしたことを明かしていく。

 フェラーズは、東条英機火野正平)や近江文麿(中村雅俊)、木戸幸一伊武雅刀)、関谷貞三郎(夏八木勲)ら天皇周辺の人物に次々と聞きとり調査を行っていく。だが、彼らの話は一向に要領を得ず、まさに「藪の中」だ。

 フェラーズは、日米開戦の直前、帰国した恋人アヤを日本まで訪ね、そのアヤの導きで、彼女の叔父である鹿島大将(西田敏行)から日本文化のレクチャーを受けていた。膨大な彼の蔵書に触れることも許された。この導きと出会いが、後に彼のレポートの大きな糧となる。

 占領軍として再び日本に渡ったフェラーズは、このレポート執筆の過程で、最愛のアヤが空襲で亡くなっていたこと、そして、アヤが自分の送り続けた手紙に、その都度きちんと返信をしたためていてくれたことを知る。

 日本=アヤへの思いは、決して一方通行ではなく、お互いに通じあっていた。この行き交いが、フェラーズのレポートにこめられていく。そして映画では、その「精神」が、そのままマッカーサー天皇の会談と、そのとき例の二人並んだ写真撮影を準備していくことになるのだ。

 したがって、作品が示そうとする、会談と、そこで話しあわれる戦後日本のデザインの位置付けは明白だろう。それは、アメリカの一方的な占領政策ではなく、また日本の無条件降伏でもなく、あるいは国体の護持と降伏とのバーターですらなく、あくまで日米合作による統治だったのだ、と。アメリカが描いたシナリオに、天皇が「終戦のエンペラー」の役として「協力」することなしに(マッカーサーに「ご協力いただきたい」と言わせている)、戦後日本の「平和」はなかったのだ、と。

 ただし、本作におけるマッカーサー自身、もし本国の望むとおりに天皇を処刑すれば、共産主義者たちが跋扈しヘゲモニーを握るだろうと当初から懸念していたのではなかったか。だからこそ、反共のフェラーズに戦争責任者の調査を命じたのだ。すなわち、この調査は、初めから天皇の免責が前提だったといえる(だから、調査期間も十日間という無茶なものだった)。

 フェラーズの調査は、そのマーカッサーの意志を忖度したものとならざるを得ない。十日の間、彼は、何度となくマッカーサーに呼ばれては突き返されるが、彼の姿が、戦争責任者の割りだしというよりは、上司の意志のありかを探ってはつかみあぐねているように見えるのもそのためだ(仕事がうまくいかないサラリーマンのごとく、一杯飲み屋で日本人にからまれたりする)。

 本作プロデューサーの奈良橋陽子は、これをアメリカ映画にした理由を、露骨までにこう述べている。「アメリカは、日本以外の国では韓国、ベトナム、アフガン、イラクと全て占領政策に失敗していて、成功したのは日本だけ。そのことを殆どのアメリカ人は知らない。だから、なぜ日本では成功したのかということをアメリカ人に知ってほしかった」(田原総一郎との対談)。

 この作品が、このような意図に基づくアメリカ映画である以上、作品に対して、「天皇の戦争責任に向き合っていない」と非難しても仕方がないといえば仕方がないだろう。また、恋人同士の関係になぞらえるロマンティシズム(それは、結局オリエンタリズムではないのか)も気にならないはずはない。

 だが一方で、むしろ、アメリカのシナリオによる戦後日本の統治とその神話性をあからさまに示した作品として、そして、いまだ「統治」という発想が希薄な日本人が見る映画として、案外悪くないと思った。

中島一夫