淵に立つ(深田晃司)

 見逃していた昨年の作品だが、噂に違わぬ怪作である。

 「淵に立つ」とは、「人間を描くということは、崖の淵に立って暗闇をのぞき込む」ような行為だと言う、監督の「師」である平田オリザの言葉からだという。だが、『歓待』(2010年)、『ほとりの朔子』(2013年)、『さようなら』(2015年)といった過去作を見てくると、この監督の視線は、崖の底=垂直性というよりは、「淵」や「ほとり」という「場」、言いかえれば、人と人との「間」=水平性に注がれているように思える。

 例えば、前作『さようなら』ではアンドロイド演劇が取り上げられていたが、そこでは人間とアンドロイドとの間に、あたかも「心」が通い合っているようにも見えた。それは人間と人間の間と何が違うのか。当たり前だが、心は見えない。われわれは相手が人間である場合、両者の間には心の通じ合いがあると思いこんでいるだけなのかもしれない。実は、人と人との間とは常にすでに「淵」であり、すると人間関係とは「淵に立つ」ことなのではないか。

 しかも人は、主体的、能動的に「淵に立つ」こともできない。われわれは、人間関係に対していつも受動的でしかない。いつのまにか、それに巻き込まれ、しかも一度関わると、そう簡単に都合よく解消してもくれない。『歓待』の不法移民のように、それは突然押し寄せてきては、必ず残響を残してゆく。われわれは、構造的に先行するものの存在に気づかずに、個的な経験としてはいつも突然、淵に立た「される」のである。

 金属加工工場を営む「鈴岡利雄」(古館寛治)と「章江」(筒井真理子)夫婦は、突然現れた「八坂草太郎」(浅野忠信)を拒絶できず、ずるずると工場に住み込みで働くことを受け入れざるを得ない。八坂と利雄は、拭いがたい、ある過去を共有しているからだ。

 その後、この夫婦と娘「蛍」に起こる出来事は、八坂に対するこうした受動性によって引き起こされていく。この家族を一変させてしまった、あの出来事も含めて。

 章江が、自らのキリスト教信仰を、主体的な「サル型」ではなく、受動的な「ネコ型」だと八坂に指摘されるシーンがある。まさに、首根っこをくわえられ運ばれていくネコのように、一家は、主体として振る舞う八坂との関わりに、受動的に翻弄されていくほかない(八坂は、人との約束を「死んでも守ろうとする」人間(おそらく元ヤクザだろう)で、それを「正しさ」として他人にも求めてきたという。今は、それを「独善的」な「罪」として自覚はしているようだ)。

 ある決定的な事件が起こった後、八坂は家族の元から消える。それで一家と彼との縁は切れたように見えた。だが、そうはいかない。八坂の息子「孝司」(大賀)が、不意打ちのように、父親同様この家族に接近してくるのだ。八坂とこの家族との関係は、まるでそれが宿命や業であるかのように切っても切れない(母が子に食われることを代々繰り返すという蜘蛛のエピソード)。しかも孝司は、父・八坂と会ったこともないというのだから、彼にとっても、(彼が寝たきりの母にしたことも含めて)すべてが受動的なのだ。

 孝司の父に対する記憶は、いつか河原で撮られた、家族と八坂が横に並んで寝そべっている写真による。その写真を手掛かりに、彼は家族の元へとやってきたのだ。ラスト、ある出来事が起き、今度は孝司が、父の代わりにこの家族と河原に並んで寝そべることになる。まるで、あの写真の構図が「ネガ」であったかのように。

 言うまでもなく、被写体は写真=記憶に対して受動的でしかない。何とか主体的たろうと、人は必死にポーズをとろうとするが無駄である。こうして写真は、そこに写っていない者すら、記憶=過去の受動性へと巻きこんでいくのだ。

 人が人から生まれ、すでに出来上がっている関係の中へと生まれ落ちてくる以上、誰もがこの根源的な受動性を免れない。鈴岡夫妻は、消えた八坂の足取りさえ掴めれば、この家を襲った出来事の全貌が明らかになると考えて生きてきた。だが、やがてそうではないことに気づく(ついに八坂らしき男を見つけた利雄は、だが「道を間違えました」と引き返してしまう)。なぜなら、結局この家族は、すでに記憶=過去を受け入れたうえで、その取り返しのつかない事態を、主体的に引き受けて生きていかねばならないからだ。娘「蛍」の現在の状態が、そのすべてを語っているだろう。

 全編救いのないように見える本作に、かすかな希望の光が射すとしたらこの瞬間だ。エンドロールの暗闇の中、利雄が必死に息を吐く音だけが聞こえる。その音は、冒頭のメトロノームの音と呼応しているだろう。

 本作の英題「Harmonium」とは、「調和」とも「オルガン」ともとれる。そういえば、冒頭では、メトロノームの機械音に合わせて、調和するようにオルガンが奏でられていた。これは、機械的?アンドロイド的?ともいえる、結局何者か分からない八坂に対して、受動的に突き動かされていった、一家のその後の道行きを暗示しているともとれよう。だが、ラストで利雄は、それまでの受動性と言い訳ばかりの人生をかなぐり捨てるように、今初めて、自分の主体的な意志で、必死に呼吸をしているのだ。この、機械音でない、極めて不「調和」な、人間の息の音によって。

中島一夫