階段と戦争――小津安二郎の「不潔」その2

 田中絹代は、「小津映画の俳優としては、私は落第生なのでございます」と言っていたという(『小津安二郎―人と仕事』一九七二年)。この言葉は、もう一方に、小津映画の優等生であった原節子を想起させずにおかない(石田美紀田中絹代と小津映画」、『ユリイカ 総特集小津安二郎』二〇一三年)。

 

 実際、「失敗作」と評された『風の中の牝鶏』(一九四八年)の直後、野田高梧とともに茅ケ崎にこもって、「『風の中の牝鶏』の影を追い払う起死回生の作となる」(石田)次作『晩春』(一九四九年)の脚本を書き、主演女優に原節子を配した。

 

 一方、『非常線の女』(一九三三年)で、「どうせあたいはずべ公だよ!」と叫んだ「時子」=田中絹代は、『風の中の牝鶏』で小津作品に再び「時子」として帰還したものの、まさに「ずべ公」として階段から突き落とされたのである。以降、小津作品に登場するのは、蓮實重彦のいう「宙に浮んだ」二階であった。

 

では、なぜ二階は宙に浮んでいるのか。理由は単純である。階段が存在していないからである。『朗かに歩め』や『その夜の妻』といった初期の小津には確実に存在していた階段が、後期の小津からは姿を消しているのだ。(『監督 小津安二郎』) 

 

 そして、宙に浮んだ二階は、『晩春』の原節子から『秋刀魚の味』の岩下志麻にいたる、作品の結末で他家に嫁いでゆく「たえず二十五歳でとどまりつづける未婚の女たち」の「聖域」となっていく。

 

小津的「作品」に後期の相貌を刻みつける娘たちがほぼ二十五歳でその成長をとめてしまった瞬間から、地面とはたやすく接点を持ちえない階上の空間が、小津的な生活環境を二重化し、その上層部分を宙に浮上させてしまったのである。それまで男の子供たちの成長ぶりを一貫して見据えてきた小津の視線が適齢期の娘の上へと移行したときから、この空間の二重化が日常化される。そしてこの二重の空間は、選別と排除の運動によって宙に浮んだ二階の部屋を特権化するにいたる。

 

 蓮實のいう「選別と排除」は、述べてきた文脈でいえば、まさに「落第生=ずべ公=田中絹代」の「排除」と、それに入れ替わるような優等生、原節子の「選別」にほかならない。前回述べたように、田中絹代の「排除」と、小津自身の戦争=従軍慰安婦体験の拭い去り、さらにはそれらを象徴する「階段」の消去は、互いに連関している。小津作品における「階段」の消去とは、戦争体験の沈黙とともにあるのだ。

 

 以降、他家に嫁いで「国民」化していく以前の娘が、宙に浮んだ「聖域」において、「ほぼ二十五歳でその成長をとめてしまった」ように見えるのも、したがって必然であろう。ある時期からの小津は、嫁いでいく娘ばかり撮っていたというより、むしろ己の戦争体験を記憶に呼び覚まさせかねない、銃後を担い得る婚姻後の娘を、ひたすら繰り返し「排除」しようとしていたのではあるまいか。その結果、娘のみならず階段までもが「排除」され、宙に浮んだ二階が「聖域」と化したのである。

 

 さまざまな意味において、『風の中の牝鶏』の「影を追い払う起死回生の作」であった『晩春』で、階段から落下した田中絹代と入れ替わるように、二階の聖域へと君臨した原節子は、最近後妻を貰った叔父・三島雅夫に、「汚らしい」「不潔」とさかんに言い放つ。この「不潔」は、その後、遺作となった『秋刀魚の味』において、若い後妻を貰った友人の北竜二を「不潔」呼ばわりする笠智衆にまで引き継がれていくだろう。

 

 彼(女)らから発せられる、この「不潔」というセリフは、改めて耳にするとドキっとする。若い後妻と結婚することが、そんなにも「不潔」で「汚らしい」という潔癖さを、こちらはすでに共有していないからだ。だが、小津において、まさにそれは「不潔」でしかなかったのだ。

 

 初老の男と若い女との再婚には、どこか(経済力に裏打ちされた)「性的」な「慰安」のイメージがつきまとう(もちろん「事実」ではない)。子作り(という目的)が想像しにくいからだろう。『秋刀魚の味』の北竜二が、笠智衆中村伸郎にさかんに「性的」にからかわれるゆえんだ。小津の場合、述べてきたように、それはほとんど消し去られるべき「戦争=従軍慰安婦」体験と通底するものだったのではないか。再び『秋刀魚の味』でいえば、笠と中村が、料理屋の女将相手に、北は「昨日死んだよ」「残念だったねえ」と口々に冗談を飛ばすのも、おそらく若い後妻との再婚が小津の中では「戦争」と直結しているからだろう。

 

 「不潔」というのは、当時の価値観というより、小津自身の視線なのだ。それは、戦後の「家」の中に持ち込まれてはならない「不潔」なものなのである。あの「ずべ公」田中絹代は、そのような「不潔」であったがゆえに、「階段」から「排除」されようとしたのではなかったか。

 

(続く)