「二階」と人民戦線――小津、蓮實、志賀 その3

 いったい、『東京暮色』に何が起こっているのか。このとき頭をよぎるのが、またしても『暗夜行路』である。

 

小津作品の中でも最も暗く救いのない印象を与える作品。『東京暮色』というよりは、これでは『東京暗夜』と称したいぐらいである。過去の不倫が物語の伏線となっている点で、この作品は『暗夜行路』の記憶から出発したと考えられなくもない。実際、志賀直哉を崇拝し、私的な交際もあった小津に、『暗夜行路』映画化の勧めはあったらしい。「『早春』快談」で、岸松雄が〈ちょっと聞いたのだけど、小津さん『暗夜行路』をやるのですか〉と質問したのに、小津と野田はこう答える。

 小津 まだやるともやらないともきまらない。

 野田 小津さんがやっても、ぼくは御免こうむる。

 小津 ああいうものをやる自信がない。

 野田 盲目蛇で、志賀先生を知らないでやればやれる。

 小津 こうなってくると手が出ないじゃないかな。強いてやれなければ、あれによく似たようなまやかしものをやれというのだ。(田中眞澄『小津安二郎周游』二〇〇三年)

 

 田中の言うように、「日本映画史上、最も呼吸の合った名コンビだったはずの小津安二郎野田高梧が、この作品に限って対立、確執が生じた事実は、今や伝説的なエピソードであ」る。このとき、二人の「呼吸が乱れていた」(蓮實)ということはよく指摘されるものの、それが『暗夜行路』(映画化)をめぐってであったという事実は、あまり言及されない。だが、当時の助監督及川満の証言でも、「小津安二郎の五七日忌の席上、野田高梧はこの作品に対する激しい嫌悪を私に語った」というように(「野田高梧小津安二郎」『シナリオライター野田高梧をしのぶ』)、小津の死後に至っても収まらないほどの『東京暮色』への「嫌悪」を、野田は隠さなかった。

 

 それは、田中が言うように、「『暗夜行路』映画化に関して、迷いがある小津に対して、野田ははっきりと赤信号を点滅させていた」にもかかわらず、小津がそれを生煮えのまま強行したからではなかったか。

 

 そもそも、野田高梧が『暗夜行路』映画化としての『東京暮色』に批判的だったことは容易に想像がつくことだった。なぜなら、そのこと自体、『風の中の牝鶏』の時の反復だからだ。野田は言っている。「実を言うと、僕は「風の中の牝鶏」という作品を好きでなかった。現象的な世相を扱っている点でその扱い方が僕には同感出来なかった。で、ハッキリそれを言うと、小津君も素直にそれを認めてくれ、そして二人で茅ケ崎の旅館にこもって「晩春」を書くことになったのである」(野田高梧小津安二郎という男――交遊四十年とりとめもなく」『小津安二郎集成』一九八九年)。

 

 『晩春』以降のいわゆる「後期」小津は、この野田の『風の中の牝鶏』批判に始まるといってよい。野田には、『東京暮色』が『風の中の牝鶏』の小津に戻ってしまったように見えたのだろう。それは、野田が『東京暮色』を「リアルに現実を表現することは無意味と思う。現実を越えた或る何か、それを映画の中で描きたい」(及川満、前掲)と、ほぼ『風の中の牝鶏』と同じ言葉で批判していることからもわかる。これら「現象的な世相を扱っている点」や「リアルに現実を表現する」という批判が、志賀直哉白樺派的リアリズムや私小説にも向けられている言葉であると考えるのは、穿ち過ぎだろうか。

 

 おそらく野田には、小津が再び「性的なもの」に誘引されていく原因が、志賀の『暗夜行路』の影響であることも分かっていたのではないか(小林秀雄が「志賀直哉論」(一九三八年)で言ったように、『暗夜行路』は「登場する男女の間に、心理上の駈引きなぞ一切見られない。すべては性慾という根柢的なものに根ざし」ているといえる。まさに「性慾」という、「心理」ではない「リアル」が描かれた小説と読まれていたのだ)。だからこそ、あれほどまでに『暗夜行路』映画化に反対したのだろう。

 

 それはさておき、『東京暮色』に見られる志賀の影については、他にも指摘しておきたいことがある。それは、妹(有馬稲子)の自殺が「踏切り」で起こるという点である。以前論じたことであるが、「踏切り」は志賀文学において特権的な「場所」だからだ(「踏切りを越えて」『収容所文学論』二〇〇八年)。志賀の「児を盗む話」(一九一四年)から引いておこう。

 

それから二三日しての事だった。その日は穏かないい日和だった。午後二時頃私はぶらりと家を出て町へ出ようとした。町へ出るには汽車路を通らなければならなかった。踏切りの所まで来ると白い鳩が一羽線路の中を首を動かしながら歩いていた。私は立ち留ってぼんやりそれを見ていた。「汽車が来るとあぶない」というような事を考えていた。それが、鳩があぶないのか自分があぶないのかはっきりしなかった。然し鳩があぶない事はないと気がついた。自分も線路の外にいるのだから、あぶない事はないと思った。そして私は踏切りを越えて町の方へ歩いて行った。

「自殺はしないぞ」私はこんな事を考えていた。

 

 「児を盗む話」は、尾道を舞台にした幼女誘拐小説だが、この「踏切りを越えて」行くことと「自殺」とが直結していることは、この作品に限らず、志賀文学の特徴的な現象といってよい。「踏切り」は、志賀における、ある臨界点を示している。

 

 尾道といえば、誰もが『東京物語』(一九五三年)において、父母かなぜか尾道に住んでいることを想起せざるを得ないが、おそらく、『東京暮色』における妹の自殺が「踏切り」で起こっていることも、志賀の影響であろう。『一人息子』(一九三六年)や『父ありき』(一九四二年)ほか、あれほどまでに、田舎と都会とに引き裂かれる近代人を描いてきた小津は、おそらく志賀の「踏切り」が、尾道において山と町とを分ける境界線であるにとどまらず、伝統的な共同体と近代的な都市空間とを隔てるシンボリックな「場所」であることをも感受していた。したがって、「踏切りを越えて」行くという行為は、近代人が不可避的に都市(化)されていくほかないオブセッションとしてあり、しかも踏切り=リミットを越えてしまえば、それは家族をはじめとする共同体の崩壊に向かって、もはや後戻りできない「自殺」的な行為であることも、よくわかっていただろう。家族が崩壊していく過程と、有馬稲子が踏切で自殺することは、志賀を介して密接に結びついているのだ。いわば、近代の人間自体が、常にすでに「踏切りを越えて」「自殺」へと突き進んでいく、「暗夜」の「行路」の途上にあるのである。

 

 このように、『東京暮色』で『暗夜行路』の映画化が成功したかは別にして、小津がかなり意識していたことは間違いない。どうやら、小津は、文学少年時代から志賀文学に親しみながら、戦地ではじめて『暗夜行路』後篇を読破したようだ(「岩波文庫で、前篇は二度目だつたが後篇ハ始めて激しいものに甚だうたれた。これハ何年にもないことだつた」一九三九年五月九日の日記)。小津の中で、『暗夜行路』は自らの戦争体験とも不可分なのだ。

 

 したがって、「その1」で述べたように、戦後すぐの『風の中の牝鶏』にも『暗夜行路』の影響が表れているのも自然であるし、以前書いたように、小津作品の「階段」が戦争の記憶と結びついていることも、またきわめて自然だといえる。

 

 そして、『東京暮色』においても、やはり戦争の影は見られる。それは、「戦後」というより「戦前」の様相を呈している。

 

有馬稲子が演ずる捨てられた女の悲劇はたしかに小津の得意とする題材ではあるまいが、その軽薄な恋人の田浦正巳が大学の角帽にトレンチコートといういでたちで姿を見せるとき、われわれは、『非常線の女』の三井弘次がそのまま登場したのではなかろうかといった錯覚に襲われる。事実、すでに触れた真夜中の喫茶店のセットや、警察署の内部の光景などは、『非常線の女』の舞台装置を思わせるほど抽象的で、ほとんど現実感を漂わせてはいない。補導された妹をもらいうけに警察に現われる原節子は、そのコートを羽織った和服姿によって、『非常線の女』の水久保澄子の再来を思わせ、人を戸惑わせる。小津が撮った最後のモノクローム作品は、そのしかるべき側面において、戦前のある時期の自分の映画的世界の再現ともなっているのである。作者自身に、どの程度までその意図があったかどうかは問うまい。(蓮實重彦『監督 小津安二郎』)

 

 蓮實が論じるように、『東京暮色』には明らかに戦前の『非常線の女』(一九三三年)のテイストが感じられる。もちろん、テクスト論に徹する蓮實は、ここでも「作者自身に、どの程度までその意図があったかどうかは問うまい」と断ることを忘れない。だが、『東京暮色』が、『非常線の女』にも似た、ある不穏さをたたえた作品であることは間違いあるまい。何せ、中心人物である有馬稲子が、最後自殺するのみならず、一度も笑わない作品なのだ。

 

 『非常線の女』は、そのタイトル通り、「一九三三年=非常時」の作品だった。「非常時」の一語がスローガンのように行き交った一九三三年に、小津はアメリカ映画の暗黒街メロドラマを、完全に日本へと移植してみせた。一九三三年といえば、ナチスによる梵書事件、小林多喜二の拷問虐殺、滝川事件、佐野学と鍋山貞親の転向声明などが次々と惹起した。まさに「非常時」である。世界資本主義のインターナショナルな拡大が頭打ちになるなか、それと随伴するように共産主義インターナショナリズムも抑圧されていく。すると、反作用的にインターナショナリズムに対抗するナショナリズムが回帰してこざるを得ない。小津のモダニズムも、『非常線の女』から、下町の人情共同体を描くいわゆる「喜八もの」である『出来ごごろ』(一九三三年)へと転回を余儀なくされていった。

 

 小津はマルクス主義者ではなかっただろうが、モダニストではあったといえるだろう。世相風俗としてのマルクス主義(運動)は、いやがうえにも視界には入ってきていただろうし、「失業都市東京」(徳永直)という衝撃的な語が踊る『東京の合唱』(一九三一年)や、『生れてはみたけれど』(一九三二年)ほか「サラリーマン恐怖時代」(青野季吉)を主題化した「会社員もの」の作品も数多い。『大学は出たけれど』(一九二九年)というキャッチーなタイトルは、大卒の就職不安をはじめとするインテリゲンチャの行く末への「ぼんやりとした不安」をすくい上げる決まり文句となっていくだろう。

 

 そんななか、一九三六年、二・二六事件の叛乱部隊が帰順した二月二九日の翌日、三月一日に、日本映画協会が発足する。

 

(続く)