「二階」と人民戦線――小津、蓮實、志賀 その2

 「二階=上」に昇る「階段」に意味が生じるのは、このように『暗夜行路』において、である。それは、「不義」という性的な問題と明確に結びついている。そして小津は、その「主題」や作品「原理」を含めて、志賀の「二階」や「階段」を「忠実」に反復しているのである。述べてきたように、両者の関係への視線を遠ざけようとした蓮實のテクスト自体が、皮肉にも両者の近さをさし示しているのだ。

 

 例えば、蓮實は、『晩春』以降の後期小津作品の「二階」を、「女たちの聖域」と見なしている。注目すべきは、その「女たち」が、「たえず二十五歳でとどまりつづける未婚の女たち」だということである。

 

そこで娘たちは、いささかも変容することはない。不意に放埓な存在となるわけではないし、人目を避けて卑猥な仕草を演じるわけでもない。この宙に浮んだ空間への移行は、物語の上でいかなる驚きの契機をはらんではいないのだ。だから、聖域ではありながら、男性を排除した結果として女としての性的な側面が誇張されはしないのである。(『監督 小津安二郎』)

 

 『晩春』以降の小津作品が、「娘」の結婚話ばかり撮ってきたことは誰でも知っている。だが、結婚という家族的なイベント自体に小津の興味が向かっているわけではないことは、作中に「式とか披露宴が姿をみせることはまれ」であることからも分かる。まるで娘たちは、「結婚」自体からは切り離されるために、ひたすらその結婚「まで」の過程が描かれるのだ。

 

 そのことと、小津の結婚前の娘たちが、「ほぼ二十五歳でその成長をとめてしま」い、その瞬間から「階段」が不在となった「聖域」としての「二階」が、あたかも「宙に浮んだ空間」のように「地面から離脱」していくこととは互いに関連しているだろう。それ以来、「不在の階段は、階上へと人を導く上昇する通路ではなく、不可視の壁のようなもの」と化すのだ。

 

 いったい、何に対する「壁」なのか。言うまでもなく「性的なもの」に対して、である。小津の「二階=聖域」は、「男性を排除した結果として女としての性的な側面を誇張されはしない」空間でなければならないのだ。

 

 この小津の不在の「階段」と「二階」の「聖域」化が、あの『暗夜行路』の母が「地上」へととどまり続け、一方、娼婦たちは「二階」の座敷へと気軽に「階段」を昇ってくるという、あの「階段」や「二階」と、主題を共有していることは見やすいだろう。小津の「階段」は、露骨なまでに「性的なもの」と結びついており、後期作品において「階段」が不在と化すのは、「二階」の娘たちを「性的なもの」から「壁」のように遠ざけておくためだといってよい。小津が、結婚「まで」の娘たちにしか関心を向けないことも、その表れであろう。「二階」はまさに「聖域」なのだ。

 

 それは、蓮實が「男たちの聖域」と呼んだ「五十五歳にさしかかった父親たちが寄り集まる料理屋の座敷」と対比すれば、より明瞭になるだろう。そこで交わされる、一見たわいのない男たちの会話は、「二階」とは逆に、現在なら確実にセクハラになるだろう「性的なもの」に満ちているからだ。

 

 例えば、『彼岸花』(一九五八年)では、「夫婦間の男女の精力の差が子供の性を決定する」という俗説を、そこにいる一人一人に当てはめながら笑い合う。さらには、料亭の女将(高橋とよ)にも、「子供は何人いるか」「みんな男だろう」などとからかうのだから目も当てられない。また、『秋刀魚の味』(一九六二年)でも、若い女を後妻に迎えた友人が、それゆえに精力を消耗させて死んでしまったのだと、これまた女将の高橋とよにドッキリをしかけるのだ。

 

 こうして、小津作品には、結婚前の娘たちと対比されるように、これら「五十五歳にさしかかった父親たち」が存在しており、「料亭の座敷という男の聖域で流通している記号が、そこにこめられた意味の他愛のなさにもかかわらず、女性の介入を排しているという事実の確認が重要なのだ」(蓮實)。そこは、交わされる話題も含めて女性たちを排除している空間=聖域だが、裏を返せば、その「性的」な言葉が行き交う空間は、決して「家」の内部には持ち込まれてはならないのである。むしろ、「男の聖域=座敷」は、家という日常性から排除されることで「聖域」化されており、主題的には、あの不在の「階段」が可視化された空間ともいえるだろう。いわば「男の聖域」の存在は、ひたすら「性的なもの」から遠ざけられた「二階」の「聖域」化に、「主題」的に加担しているのだ。

 

 その「聖域」としての「二階」が、突如その存在を危うくさせるのが『東京暮色』(一九五七年)である。蓮實が言うように、この「『東京暮色』は、その前作にあたる『早春』とともに、戦後の風俗に染った無軌道な若者の言動に年甲斐もなく関心を寄せた小津の失敗作と見なされている。かつて、植民地勤務で東京を留守にしていた折に妻に逃げられた初老の銀行家の娘が、不良とつきあううちに妊娠し、子供を堕ろしたうえで自殺するという主題は、なるほど戦後の小津にしては例外的だということもできる」。

 

 『東京暮色』が「失敗作」かはさておき、そこに『晩春』以来遠ざけられてきた「性的なもの」が沁み込んできていることは確かだろう(冒頭のショットからして、木村恵吾監督の『浮世風呂』の看板が映し出される)。「植民地勤務」で「留守にしていた」夫が妻に逃げられるという展開も、植民地=戦地にいる間に妻が売春をする『風の中の牝鶏』の夫を容易に想像させるのだ。

 

 一見、「二階」にいる娘(有馬稲子)が、不良とつきあううちに妊娠し、子供を堕ろしたうえに自殺してしまうという今作は、見てきたような小津作品の「二階」という「主題」を大きくぐらつかせるものだ。だが、夫=父の留守中に(親族ならぬ勤務先の)男と逃げた妻=母は、現在は東京に戻ってきており、娘が不良とつきあううちに出入りするようになった「二階」に位置する雀荘を、新しく夫婦となった男(以前一緒に逃げた男とは別の男)と営んでいる。その姿を目にするとき、娘が「性的なもの」に翻弄されていくのは、やはりこの「二階」という「主題」に構造的に呪縛されているからではないかと思えてくるのである。

 

 思うに、娘の悲劇は、不義を犯したゆえに頑なに「地上」にとどまっていたあの『暗夜行路』の母が、もし「二階」へと昇ってきていたらどうなっていたかを物語っているのだ。母が東京に戻ってきていることを知らなかった娘が、階下にいる姉の原節子を「ちょっと話があるの」と呼び、そのことを問いただすのがまた「二階」である。そこで姉は白状するものの、「このことはお父さんの前で絶対に言っては駄目よ」と、むしろそのことを今日まで忘れよう忘れようとしてきた父のことを気遣っているように見える。あの何かと議論のある「壺」の場面をもつ、『晩春』以降の父と娘の愛情関係といえよう(言うまでもなく『晩春』の父も笠智衆)。

 

 だが、妹は「私はお父さんの子ではないんじゃないの?」、「ちっともお父さんと似たところがないんだもの」、「お母さんの汚れた血が混じっているんだもの」と取り乱すばかりだ。その後彼女は、「二階」の雀荘に赴き、そんな性的に淫らな話は「二階=聖域」にふさわしくないとばかりに母を階下へと誘い出したうえで、母にも同じことをぶちまけてしまうだろう。

 

 つまり、『東京暮色』の母(山田五十鈴)は、後期小津作品が築いてきた、「聖域」化されてきた「二階」を、根こそぎ破壊してしまう存在として登場するのである。先に述べたように、この母は、『暗夜行路』の母に反して、性的に堕落しながらも平然と「二階」に位置している存在である。だから姉は、母のいる「二階」の雀荘へと昇ってきて、妹の死は「お母さんのせいです」とたった一言言い放ち去っていくだろう。まるであなたが「二階」にいること(だけ)がすべて悪いのだ、とでもいうように。また、そう告げる姉が、ひたすら小津作品の「二階」の「聖域」化に貢献してきた原節子でなければならなかったのも、今となっては必然といえるだろう。

 

 母の山田五十鈴の小津作品への出演が最初で最後となったのも、それゆえではなかったか。下の娘の死と、上の娘からの糾弾を受けて、母は「わたし、もう東京が嫌になっちゃった」と言って、小津作品のトポスである東京を永久に去っていくのである。もちろん、それは志賀の尾道であってはならない。雀荘を営む夫婦に、かつて過ごしていた植民地(満洲)の寒さを思い起こさせる土地(室蘭)なのだ。

 

(続く)