風立ちぬ(宮崎駿)

 主人公「二郎」の妻「菜穂子」の声を担当した瀧本美織が、あるTV番組で映画の紹介を求められ、「堀越二郎さんと堀辰雄さんの人生をごちゃまぜにして、…」と言っていた。あまりに率直なコメントで、思わず苦笑してしまった。

 それにしても、なぜ零戦の設計者である堀越二郎と、作家の堀辰雄の人生とを、「ごちゃまぜ」にしたのだろうか。おそらく、ここには、この監督の3・11に対するスタンスが表れている。

 作品序盤に関東大震災が起こり、二郎は列車の中で被災する。この時、菜穂子たちを救った二郎は、後に軽井沢で再会して二人が結ばれるまで、ずっと「王子様」のように菜穂子の記憶に残り続けるのだ。

 この関東大震災が、まるで津波のように描かれる。画面奥から手前に向かって、大地が津波のように波打ってきて、街や人をめちゃくちゃになぎ倒し、根こそぎにしていく。

 二郎らが乗った列車は、原発のメタファーだろう。菜穂子らは列車が爆発するのではと恐れ、急いで離れようとするが、二郎は「馬鹿なことを言いなさんな。列車は爆発したりしません」と冷静に諭すのだ。ここには、3・11後の原発メルトダウンをめぐるパニックが重ねられていよう。技術者であるがゆえに事態に際して冷静に対応でき、人命まで救助する二郎は、確かに「王子様=ヒーロー」である。

 だが、この時重要なのは、二郎が、もともとはパイロット志望だったものの視力が弱く、技術者とならざるを得なかった人物として設定されていることだ。その結果二郎は、戦争という現実とは無縁に、より軽くより美しい飛行機を設計する夢を、純粋に追いかけ続ける技術者のように描かれる。

 なぜ、そのように設定され描かれねばならなかったのか。それは、原発ショックから、日本の技術(者)の夢を救い出すためではなかったか。

 二郎の設計した零戦は、一機も戻ってこないという悲惨な結果に終わったが、今後も二郎は、ドイツをはじめとする西洋と、「アキレスと亀」(むろん、作中でのこの言葉の使われ方は間違っている)の技術競争を続けていくだろう。

 戦争自体の場面はものの2,3分であっさりと済まされるところに、戦争ではなく「無垢」の技術にウェイトがあることは明らかだ。たとえその技術の目的が戦争であったとしても、他国には負けまいという夢を見続ける技術者の魂は、少年のように純粋なものだと。

 同様に、原発は悲惨な事故を起こし、周囲は放射能汚染に見舞われたが、そこにつぎ込まれている日本の技術者の純粋な夢まで「汚染」させるわけにはいかない。その悲惨さが諸外国に輸出されようとも、それ自体は技術における「アキレスと亀」の純粋な競争なのだ。

 「汚染」は、菜穂子の体=結核が全部引き受けて静かに消え去るから、あなた=技術者は「生きねば」。技術による放射能汚染から、汚染を抜き取って技術のみを純粋化しようとするとき、「文学」が要請される。技術者の夢は、結核という病を、純粋さに転化して神話化した、堀辰雄の「文学」によって支えられる。

 「生きねば」とは、技術者を鼓舞する「文学」的な呼び声にほかならない。

中島一夫