「総力戦」の時代における文学・批評・政治

 5月21日(土)、紀伊國屋書店新宿本店にて行われるイベントに参加します。

https://www.kinokuniya.co.jp/c/store/Shinjuku-Main-Store/20160426100059.html


以下、パネリストの最近の言葉から。
トークの内容と直接には関係ないものの、これらは互いに交錯している。おそらく当日は、これらの延長線上で、言葉が交わされるはずである。

第二次世界大戦およびそれ以降の総力戦というシステムは、現在かたちを替えてふたたび私たちの生の総体を捕捉しつつある。それは国民国家の代表=表象制度を揺るがさずにはおかない。国民の「一般意志」つまり主権を代表=表象する立法府およびそれを規定する憲法に抵触するのは明らかだからである。つまり総力戦は私たちがこれまで「文学」と呼んできたものの根拠をあからさまに無と化すのだ。(…)それを拡散しているのはテロリストではなく国家である。原発を稼働させつつ戦争状態を生成させるなど正気の沙汰とは思えないが、しかし私たちはそれを現に生きているのだ。(石川義正『錯乱の日本文学 建築/小説をめざして』2016年)

むしろ、われわれの周辺で言えば、詩人・稲川方人が「彼方へのサボタージュ」と言ってきたことを想起すべきである。「生きさせろ!」と主張する人的資本と、もちろん生きさせようとするところの新自由主義との相補性の「彼方」で賭けられる「サボタージュ」にほかならない。それが同時に、われわれを動員してやまない「技術」の「急き立て」に対するサボタージュを意味することも、言うまでもないだろう。
サボタージュとは総動員に対するサボタージュであり、スキルアップなどやっていられないという意識である。(…)「彼方へのサボタージュ」とは、「詩の理念とは散文である」(ベンヤミン)ことなのである。もちろん、現在のわれわれは、その具体的なイメージを、ほとんど手にしていないにしても、である。(すが秀実天皇制の隠語』2014年)

世界は単に変化しているのではなく、それを構成している国家とそこに生きている人間の関係を根幹的に変えるように変化している。性急な言い方をすれば、人間の同意なしの「世界」が一方的な権力によって構築されようとしている。「世界」がそうであっても、詩は「人間の同意」なしには書き得ない。

(…)私は、ただ「破壊すべきものは破壊しよう」とだけ言った。しかし、何をどんなふうに壊しても「悲しみ」と「怒り」だけは残る。それが生きている者の姿の本質だと言いたかった。生の形態において消えることのない「悲しみ」と「怒り」に、私は残された自分の「詩」の時間を賭けてみる。(…)そこに書かれる言葉が「詩」にもならず「文学」にもならなくても私はなんらかまわない。(稲川方人『詩と、人間の同意』2013年)

「逍遥から、硯友社自然主義という順で、狭い純粋化を実現してきた我国の小説は、結局天皇絶対の観念と、強大な軍備に支えられた「帝国」にふさわしいものであった」。中村は、文学が、小説が、「帝国」に抑圧されてきたと言っているのではない。むしろ、文学こそが「近代化を実現してきた」のであり、その意味で「帝国」に「ふさわしいもの」だったと言っているのだ。中村は、「現代ほど、政治が人々の嫌悪の的になった時代もない」という。重要なのは、そうさせてきたのは文学だということなのだ。(中島一夫「復讐の文学―プロレタリア文学者、中村光夫」「子午線 vol4」)