伯爵夫人(蓮實重彦)

 遅ればせながら、この話題作を読んだ(『新潮』4月号)。
 冒頭近くに「それにしても、目の前の現実がこうまでぬかりなく活動写真の絵空事を模倣してしまってよいものだろうか」とあるように、さまざまな映画や小説あるいは作家を想起させるような記号がちりばめられている。だが、一つ一つそれらを解読していくことをこちらに促してくるような作品でもないし、その余裕もなくなるだろう。読み進めていくうちに、ある一つの問いが、頭から離れなくなるからである。
 それにしても、なぜこれほどまでに「エロ」なのか、と。

 今、それに対する明確な答えを持ちあわせているわけではない。だが、例えば、作者と江藤淳との次のようなやり取りは、それを示唆しているのではないか。

蓮實 これは、そう思いになりませんかね。ぼくは、中村光夫先生とか大岡(昇平)さんなんかにお会いしていると、非常に女性的な感じするんです。(中略)ある繊細さがあって、おそらく最近の女性なんか持っていないかもしれないような肌ざわりを、表情とか振舞とかいうものをこえて風のように送ってこられるんですね。
江藤 それはどういうことかな。それはある意味で羨むべきことかもしれないし、ある意味では大変な問題かもしれないし、よくわからないですね。小林さんにはなかったですね。
蓮實 ないですね。吉本隆明氏もない。
江藤 吉本さんにも全然ないですね。
蓮實 やっぱり昭和十年代というところにいきつくのかなア。(中略)でも、ぼくはね、大岡さんや中村光夫さんの女性性というのが、なんか懐かしくてしようがないんですね。(中略)これはこまやかさというのかな、きめが違うんですね。このきめが、たえず記号を読んでいくときに、いや、読むまい、これは撫ぜておくほうがずっと大きな喜びを与えてくれるに違いないと。その喜びを絶えず与えてくれる。(『オールド・ファッション 普通の会話』1985年)

 「伯爵夫人」は、まさに「記号を読んでいくときに、いや、読むまい、これは撫ぜておくほうがずっと大きな喜びを与えてくれるに違いない」作品だと思われるが、今述べたいのは別のことだ。

 あまり注目されてこなかったが、蓮實重彦は、小林秀雄吉本隆明のラインで形成された文芸批評のパラダイムに対する、最も激烈な批判者だった。これについては、蓮實重彦論として別のところで書いたのでそちらに譲るが(近日刊行予定)、一言で言えば、蓮實の「凡庸」という概念は、まずもって小林―吉本的な「悲劇」に対する批判だったということだ。

 「悲劇」は、ある特権的な固有名=天才の卓越化によって、あたりに適度な起伏をもたらすことで「凡庸」を忘却させる。本作の「平民主義者の伯爵夫人」は、「いくら帝大出とはいえ、どこの馬の骨ともつかぬあんなぼんくらによもぎさんを嫁がせるなんざあ、子爵だった爺さんの家系を孫の代で完膚無きまでに平民化させてしまうというコンミュニズムめいた魂胆があってのこととしか考えられん」と評されており、したがって「コンミュニズムを信奉する伯爵夫人かよ」などと嘯かれる存在である。

それに、このあたくしの正体を本気で探ろうとなさったりすると、かろうじて保たれているあぶなっかしいこの世界の均衡がどこかでぐらりと崩れかねませんから、いまはひとまずひかえておられるのがよろしかろうといった婉曲な禁止の気配のようなものを、とりたてて挑発的なところのない彼女の存在そのものが、あたりにしっとりと行きわたらせている。

 
 「とりたてて挑発的なところのない」凡庸な「伯爵夫人」は、だからこそ「このあたくしの正体を本気で探ろうとなさったりする」なと言って、「あたりにしっとりと」エロを「行きわたらせている」存在なのである。

 そして、このエロは、先に引用した江藤淳とのやり取りで、すでに露わになっていたものではなかったか。

蓮實 若手批評家たちが「中村光夫の近代批判」なんて書くわけですね。そんな言葉の問題じゃないんですね。(笑)
江藤 そうじゃない。それは違う。そうじゃないでしょう。中村さんていう人はそんな近代なんてものじゃないですよ。あの人は、小説が書きたくてしようがない人ですよ。
蓮實 変にエロですよねエー。存在そのものがエロっていう感じですね。
江藤 そうそう、エロです。あの人はエロそのものですよ。(中略)だからもう、デエーンとエロでやって欲しいと思う。いや、ひょっとしたらあるのかもしれない。じいっと隠してね、ドカーンとやるのかもしれない。そうであることを望むけれどもね。

 ならば、『伯爵夫人』は、二人が中村光夫に見出していたエロを、「ドカーンとや」ったという作品だということになる。だからこれは、小林―吉本パラダイムに対する、中村―蓮實による批判としても読まれるべき作品だろう。「完膚なきまで」のエロによる「平民化」。果たして、「わが帝国」の住民は、みだりに「悲劇」にしがみつくことなく、このエロの平民化に耐えられるだろうか。
 時あたかも、開戦前夜である。

中島一夫