戦争と一人の女(井上淳一)

 素朴な疑問についてのみ述べる。
 本作は、戦争を背景とするエロと悪(暴力)がテーマだが、果たして原作の坂口安吾に、エロと悪はあるのだろうか。むしろ、安吾は、エロと悪を描けなかった作家ではないか。彼は、ほとんどピューリタンのように純粋で潔癖な男ではなかったか。

 安吾は、根っこのところで、魂や善を求めている作家だ。そんな安吾にとって、エロや悪は、実践ではなくあくまで思考の対象としてある。

 原作の「戦争と一人の女」や「続戦争と一人の女」にしても女は不感症で、だから「男を迷わす最後のものが欠けていた」のだ。そんな女が「戦争が終わるまで、やりまくろうか」(本作チラシより)とはならないだろうし、そもそも不感症の女が、いくら裸体をさらして「やりまく」っていても、一向に画面はエロくは見えない。

 悪の方は、原作にはない、連続強姦殺人犯の小平義雄のエピソードが導入される。安吾は「エゴイズム小論」で小平に触れているが、「万人は万人の狼である」という、ホッブズ的な自然=戦争状態における「狼」の極端な例として、あくまで市民社会=道義の側から小平=悪を見ている。

 小平のような男は、原作にないというだけでなく、安吾の世界には棲息し得ない存在なのだ。原作に引きつけて見過ぎてしまったのかもしれないが、見ていて「これは安吾じゃないなあ」という違和感、「なぜ安吾にしたのか」という疑問がずっと付きまとっていた。

 小平が証言したとされる、上海事変時の中国での婦女暴行についても、年号的に合わないところも多く、「信憑性が疑わしい」という指摘もある(佐藤秀のブログ「徒然幻視録」参照) http://blog.livedoor.jp/y0780121/archives/cat_10023072.html

 もし、それが「偽史」だとすると、若松孝二『キャラピラー』の歴史考証のいい加減さを、実作で批判しようとしたという本作のモチーフ自体も揺らぎかねない(そういえば若松孝二も、小平義雄事件をモチーフとして『続日本暴行暗黒史 暴虐魔』を撮っている)。

 おそらく、『キャタピラー』批判の根幹は、最後の原爆をもって「反戦」という、その安易さに対するものだったろう。そうではなく、トラウマ的な戦争の記憶へから強姦魔になった男と、戦争の爆撃の下で不感症になった女を通して、戦争の悲惨さをきちんと描こう、と(そして、反戦というか厭戦が出てくるとしたら、そこから出てくるのだろう、と)。

 これは、安吾と「快感原則の彼岸」以降の後期フロイトの並行性を指摘した、柄谷行人の思考を容易に想起させよう(新潮文庫堕落論』解説「坂口安吾フロイト」など)。戦争や戦場自体の光景ではなく、戦後の戦争神経症患者にこそ「戦争」があり、彼らが強迫反復的に見続ける悪夢=死の欲動こそが、攻撃欲動を内攻化(「父=法」の内面化ではない)させる可能性があること。

 したがって、強姦魔と不感症が出会いを遂げて、ついに快感を感じたり=着地したりせず、徹底的にすれ違い、互いに悪夢を見続けるほかないこと。もし、あるとしたら、そこにこそ安吾の「戦争」はあるのではないか。安吾にはエロも悪もなかったが、そのかわり、戦争が終わったあとの、「約束が違ったよう」な戸惑いと、どうしようもなく互いの欲望が散文的にすれ違うほかない寒々しさを描いたのだ。

 私は彼と密着して焼野の草の熱気の中に立っていることを歴史の中の出来事のように感じていた。これも思い出になるだろう。全ては過ぎる。夢のように。何物をも捉えることはできないのだ。私自身も思えばただ私の影にすぎないのだと思った。私達は早晩別れるであろう。私はそれを悲しいこととも思わなかった。(「続戦争と一人の女」)

 おそらく安吾の女は、ラスト、焼け残った木を見たりしない。気にもとめず、影のように通り過ぎるだろう。

中島一夫