3人のアンヌ(ホン・サンス)

 映画関係者が、こぞってこの監督を称賛するのは、いったい何なのだろう。
 例えば、それは、作品に見られる「差異と反復」として語られる。なるほど、この新作にしても『次の朝は他人』にしても、同じシチュエーションのもとで、同じ人物らが、同じような出来事を繰り返す。

 『3人のアンヌ』では、イザベル・ユペールが、韓国の海辺の街にヴァカンスに訪れた3人の「アンヌ」――青い服の映画監督、赤い服の人妻、緑色の服の離婚直後の女性――を演じる。そして、海岸にテントを張ってライフガードをしているオレンジ色のTシャツの青年と、その都度、色違いの「出会い」を繰り返すのだ。

 言葉も通じない二人が、身ぶり手ぶりを交えながら、何とか英語で意志疎通を図ろうとするさまは、まるで初級の英語教材に出てくるようなやりとりで、何とも健気で、またそれゆえ滑稽でもある。

 だが、ホン・サンス作品に本当に「差異と反復」はあるのだろうか。例えば、ドゥルーズは「反復」について言う。

 反復が可能であれば、反復は、法則に属するというよりも、むしろ奇跡に属する。反復は、法則に反している。すなわち、法則の類似形式と等価内容に反しているのだ。反復が自然のなかにさえ見いだされうるのであれば、それは、法則なるものに反する自己を肯定し、諸法則の下で働き、おそらくは諸法則に優越するような、そうした力=累乗(ピュイサンス)の名においてである。反復が存在するのであれば、反復が、一般的なものに反する或る特異性、個別的なものに反する或る普遍性、通常なものに反する或る特別なもの、変化に反する或る瞬間性、恒久性に反する或る永遠性を、同時に表現している。(『差異と反復』)


 ここで「反復」と結び付いた奇跡、力=累乗、特異性、普遍性、瞬間性、永遠性の、どれか一つでもホン・サンス作品に存在するか、考えてみればいい。

 青、赤、緑の服を着たアンヌが、それぞれの挿話において、ズレをはらみながら繰り返しを演じることが「差異と反復」なのではない。むしろ、そのように「一回目に、二回目、三回目を加算するというのではなく、第一回目を「n」乗する」、あるいは言い換えれば「二回目、三回目を経る必要のない、たった一回の力=累乗(ピュイサンス)としての「n」回」こそが、「差異と反復」と呼ばれるにふさわしいはずだ。

 いや、「差異と反復」という言葉でホン・サンスを褒め称える者は、ドゥルーズなど無関係だと言うかもしれない。だが、それならば、ドゥルーズの思考の後で、わざわざそれを想起させてやまない「差異と反復」という言葉を使う必要もなかろう。

 ホン・サンス作品にあるのは、「差異と反復」どころか、むしろそれらと対立さえする「類似」と「同一性」の方だろう。色違いの3人のアンヌは、見る者に、それらがあくまで「色」という同一性のもとでの「カラフル」であるという類似を強調してやまない。

 まさに、「なぞなぞ遊びの視点からだけでも、「どんな差異があるか」という問いは、つねに、「どんな類似があるか」という問いに変換できる」のだ。三つの挿話を蝶番のようにつなぎ合わせる、傘や焼酎の瓶、万年筆といった小道具も、それぞれの挿話の類似と同一性を明かしていよう。

 また、その類似と同一性の原理は、カメラワークの経済性とも親和的でもある。「もうひとつは、一番経済的に撮れること。経済的にというのは、予算上のことでありません。あるシーンで、どれだけの人間を撮り、どういう演技をおさめるのかを考え、一番簡潔に撮るにはどのようなカメラの動きをしたらいいのか」(「週刊読書人」6月7日号のインタビュー)。

 カットせず、長回しのショットの中でズームが多用されるのも、そうした経済性による。その経済的な節約が、ホン・サンス作品に独特のユーモアをもたらすのだ。

『次の朝の他人』の主人公は、さんざん出来事が繰り返されたあと、「反復には意味や理由はない」と主張する。だが、主人公がいらだつようにそう言わねばならなかったのは、その繰り返しが「差異」としてではなく、類似と同一性として経験されていたからではないのか。ここで訴えられているのは、「反復には意味や理由はない」という究極の「意味」なのだ。

 反復とは、もっと強迫的なものであり、かつ(法則に反する)侵犯的なものだろう。少なくとも私は、ホン・サンス作品に、その種の強迫や侵犯を感じたことはない。ダジャレにもならないが、むしろホン・サンス作品にあるのは、それらに侵されたり翻弄されることのない、揺るぎない「ボン・サンス」(理性)ではないか。

 確かに、かつてゴダールやシャブロル作品を華々しく飾った、あのイザベル・ユペールが、韓国の田舎の海岸に立っているだけで妙に可笑しい。だが、あくまでその「おかしみ」は、ヴァカンスでアバンチュールを楽しむ余裕のある階級のものだろう。
 果たして、まだ世界には、ホン・サンスにくすっとする余裕が残されているだろうか。

中島一夫