オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ(ジム・ジャームッシュ)

 かつての輝きはないかもしれない。物語も単調だろう。
 だが、そのクールな映像と音楽は、一度この世界のソファーに、アダム(トム・ヒドルストン)とイブ(ティルダ・スウィントン)のように身を沈めてしまうと、いつまでも浸っていたくなる。

 『創世記』のアダムとイブも、この作家にかかると、現代のヴァンパイアになる。彼らは、もはや血も魂も汚れきった俗物の人間どもの生き血を啜ることができない。血が生きていない人間どもは、したがって「ゾンビ」と呼ばれるだろう。フレッシュな「上物」の血は、病院や特別な筋からでないと手に入らない。いわば、最初の人間たるアダムとイブは、堕落しきった「最後の人間」(ニーチェ)がはびこる人間界に、今いよいよ嫌気がさしてきているのだ。

 冒頭から、回転する星空に回転するレコードが重なり合い、調和的な宇宙が音楽のように奏でられはじめる。現代のアダムとイブは、デトロイトとタンジール(モロッコ)に別居しているが、「量子のもつれ」によって、これまた天体のように求心的に引き合っている。

 だが、強欲で俗悪な「ゾンビ」の氾濫によって、電力=生産力は過剰に膨れ上がり、環境汚染や水質汚濁は甚だしい。街頭で電線が蛸足のようにこんがらがっているさまは、醜悪な電力の分捕りあいを如実に示していよう。

 生き血を啜れなくなって久しいヴァンパイアが、それでもどうしても生き血を啜らねばならないときは、人間たちを「転生」させてきた。おそらくその転生への導きは、ニーチェドゥルーズ的にいえば真の「永遠回帰」、すなわち生の永遠なる「回帰」ではなく、「反復」へのいざないだったはずだ。

 だからこそ、ラストでアダムとイブは、愛し合うカップルの生き血を狙う。純粋に愛し合う者たちのみが、「これが生か、ならばもう一度!」と、永遠に反復する生を生きたいと願っているからだ。まさに「オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ」! クリストファー・マーロウやバイロンなど、夥しく鏤められる固有名も、それ自体にこめられた意味を詮索するより、芸術(や哲学)にこそ反復する生を見出してきた、この作家の一貫した姿勢を読みとるべきだろう。

 だが、ゾンビの生は、差異の反復ではなく、同一性が回帰するそれにすぎない。彼らに対するとりわけアダムの嫌悪は、したがってツァラトゥストラの「はき気」に近いだろう。

人間たちの住む大地は、私にとっては空洞の穴に変わってしまった。大地の胸は窪み、すべての生きるものが私には、人間の腐った残骸、骨くず、蝕まれ朽ちた過去のようになってしまったのである。(中略)
 最大の人間でさえも、あまりに小さい!――これが人間に対する私の嫌悪であった。そして人間たちのうちで最小の者でさえも永遠に回帰すること――これが生存に対する私の嫌悪であった。ああ、吐気、吐気、吐気!」(『ツァラトゥストラはこう語った』)

 かつての輝きはないかもしれない、などと書いた。だが、この作家ほど「価値転換」を作品に託してきた者もいなかったはずだ。強度が感じられなくなっているのは、こちらがゾンビ化してしまっている証拠かもしれない。

中島一夫