大理石の男(アンジェイ・ワイダ) その1

 「ポーランド映画祭2013」が大阪で開催されたので、この機会に改めて、ワイダの『地下水道』(1957年)、『灰とダイヤモンド』(1958年)、『大理石の男』(1976年)、『鉄の男』(1981年)をまとめて見た。

 四作はそれぞれ、第二次大戦下のワルシャワ蜂起、「雪解け」以降、独立自主労組「連帯」結成前夜、「連帯」発足直前の時期のポーランドを描いており、その過程は、まさにソ連の権威が弱体化し、やがて失墜していく過程を鏡のように映し出している。だが、今回ワイダを見直して思い返したのは、むしろそれをまた鏡として映し出していた、かつての日本の思想空間のことだった。

 『地下水道』と『灰とダイヤモンド』をめぐっては、花田清輝武井昭夫とで評価が分かれた。そこで露呈しかけた二人の違いは、後にポーランド「連帯」に対する武井と吉本隆明の相反するスタンスとなって、はっきりと表れたように思われる。

 花田は、座談会「危機意識と新しい人間像」(「新日本文学」1959年8月)において、戦後ポーランドの「ヤンガー・ゼネレーション」のニヒリスティックな傾向や心情ではなく、今こそ積極的な面を描かなければならないにもかかわらず、ワイダは『地下水道』から『灰とダイヤモンド』に至る過程で後退した、それはコミュニストの責任に欠けると批判した。

 それに対して武井は、戦時下から二十年の流れの中で、コミュニストの側が捉えるべくして捉えられなかった、おびただしい青年のエネルギーがそこには描かれているとして評価した。一言でいえば、花田は「ヤンガー・ゼネレーション」に対して否定的、武井は肯定的と、正反対の評価を下したのだ。

 この『地下水道』と『灰とダイヤモンド』の帰結は、『大理石の男』や続く『鉄の男』になるとはっきりする。前者に発露したヤンガー・ゼネレーションの心情を、コミュニストの鉄の規律で断罪しきれなかったところに、後者における「連帯」が登場してくるのだ。

 『大理石の男』は、ソ連の「スタハーノフ運動=生産性向上運動」のポーランド版のごとき、労働英雄として祭り上げられ、大理石の彫像にまでなったレンガ工の「ビルクート」が取り上げられる。彼は、あるとき観衆の面前でのレンガ積み模範実技中にヤケドを負ってしまう。流れ作業でビルクートに手渡されたレンガの一つが、故意に熱せられていたのだ。

 レンガ工として再起不能、労働英雄の肖像も引きずりおろされ、ビルクートは体制への不信を募らせていく。むろん、ビルクートならずとも、スターリンの自慢だったこのスタハーノフ運動が、例えば、それ以前のレーニンによる「共産主義土曜労働」(労働力を私的商品と見なし、人間を物と見なすことを当たり前と感じる旧慣習の打破)とは、真逆のものに転化してしまったことを認めざるを得ないだろう。

 映画は、この労働英雄ビルクートの栄光と挫折を、卒業制作で取り上げようとする、新世代のアグレッシヴな女子学生「アグニェシカ」(裾広のジーパンでパンを齧りながら足早に闊歩する)が、真相究明していく姿を軸に展開する。

 ワイダの意図は明瞭だろう。党に裏切られ、歴史の闇に葬られたかつての労働英雄の弔い合戦を、70年代後半のヤンガー・ゼネレーションである女子学生に果たさせようとしているのだ。

 新しい女性アグニェシカがラストに訪れるグダンスク造船所は、1980年7月、政府による食肉値上げの撤回を求めるストライキの発火地点だという。このストを指導したのが、当時電気工で、後に独立自主労組「連帯」を立ち上げることになるワレサにほかならない(ワイダの新作は、ずばりその『ワレサ』だという)。

(続く)