尼僧ヨアンナ(イエジー・カヴァレロヴィッチ)

 ポーランド映画祭からもう一本。
 カヴァレロヴィッチは、『夜行列車』も捨てがたいが、ここでは『尼僧ヨアンナ』を取り上げよう。原作は、1634年にフランス・ルーダンで起こった尼僧の集団憑依事件を題材にした、ヤロスラフ・イヴァシュキェヴィッチの小説『尼僧ヨアンナ』(1946年)。

 ポーランド東北部の村にある修道院の尼僧たちが、悪魔に憑かれて日々狂態を演じている。そこに悪魔祓いを行うためにスーリン神父がやってくる。

 早速、八つの悪魔にとり憑かれた尼僧長のヨアンナに対し、今日まで拒み続けてきたという告解を促すが、彼女は一向に神父の教えに従わない。それどころか、みるみるうちにヨアンナの声や表情は奇怪に変化し、それに呼応するように、他の尼僧たちも踊り狂うのだ。映画はその姿を、白い僧衣をまとった尼僧たちが繰り広げる舞踏(ピナバウシュの「タンツテアター」を思いおこさせる)のように映し出していく。

 フーコーは、『異常者たち』において、ミシェル・ド・セルトーの『ルーダンの憑依』をふまえながらルーダンの憑依事件を分析した。それによれば、憑依とは「痙攣する肉」であり、この事件は、教会にその「痙攣する肉」を見出させた出来事だという。

 「痙攣する肉」は、「究明の権利や徹底的な告白の義務に苛立つ身体」であり、また「余すことなく語るという規則に、無言あるいは叫びを対置する身体」であり、さらに「指導に対する従順という規則に、意識的ならざる大きな動揺もしくはひそかな満悦による小さな裏切りを対置する身体」だ、と。

 尼僧たちの「痙攣する肉」は、自らコントロールの効かなくなった身体であり、それは告白の義務に対する「裏切り」である。すなわち、それは「キリスト教化に対する抵抗の帰結」なのだと。カヴァレロヴィッチ自身、「『尼僧ヨアンナ』は(キリスト教会の)教義に反する映画です」と明言している。映画は、その事態を、神父の僧衣の「黒」と尼僧たちの「白」との強烈なコントラストとして描くだろう。

 『〈真理〉への勇気』の丹生谷貴志は、ユダヤ教イスラム教、キリスト教におけるそれぞれの「真理」の位置付けから、フーコーの論じた「真理」へと至る道を丹念に追いながら、そもそもキリスト教の原罪とは、世界が「肉 chair」という悪の侵食によって劣化を余儀なくされた事態だったと述べている。

 したがって、キリスト教にとって、「肉」の問題とは、単に色欲や情欲の問題ではない。それは、世界の真理に関わる問題であり、悪魔祓いによって「肉」を掃討・排除することこそが、キリスト教における真理への意志なのだ、と。

 一見、この映画は、真理というより色欲や恋愛をめぐっているように見える。現に、監督も、スーリン神父と尼僧ヨアンナとの愛を、二人の信仰が阻んでいると言っている。その愛の抑圧が憑依となって表れる。尼僧マウゴジャータだけが、唯一悪魔にとり憑かれなかったのは、修道院の外の酒場で秘め事に興じていたからだろう。

 だが、カヴァレロヴィッチが、1959年から89年まで、ポーランド統一労働者党の党員だったことを忘れてはならない。しかも、83年には、統一労働者党と競合し対峙した、独立自主管理労働組合「連帯」に関与した映画人を批判、役職解任の要請文書に署名までしている。ワイダらと袂を分かつこととなったのも、それが原因だという。もちろん、この作品は、その前夜に撮られているが、それだけにその後のポーランド、いや世界を予見しているにも思える。

 ポーランド「連帯」に対するスタンスは、日本の文脈においても、思想的に大きな分岐点となった。例えば、吉本隆明は、日本の反核運動ポーランド「連帯」つぶしの隠れ蓑だとして、「連帯」を持ちあげた。一方、武井昭夫は、「連帯」を、ブルジョア自由主義社会民主主義無政府主義などの「混沌たる雑炊」にすぎず、大衆の憤懣を社会主義そのものへの否定、破壊へ牽引しようとするものだとして批判した。

 その後、前者がヘゲモニーを握ったことは言うまでもない。その流れは、現在にも及んでいる。それはまるで、修道院=党が体現するはずだった真理が、反スーリンならぬ反スターリン主義的でアナーキーな「肉」の侵食によって劣化していった過程のようだ。そういえば、尼僧ヨアンナは、スーリン神父に食ってかかって「真理など存在しません」と訴えていたではないか。

 一方、スーリン神父は、ユダヤ教のラビの門を叩き、躍起になって真理を取り返そうとする。だが、それは鏡の中の自己との問答のようで、どこにも出口がない(神父もラビも、同じ俳優ミェチスワフ・ヴォイトが演じている)。もはや劣化した「鏡」の外には出られず、真理に到達することはできないのだ。

 挙句の果てに、彼は、ヨアンナから自分に悪魔が乗り移るよう、罪のない者たちを殺害する(その光景を見ていた馬の、あの驚愕の目)。だが、その行為は、「悪魔=肉」の拡大、侵食に手を貸すことにしかならない。ラストでは、もう鐘が鳴らないゆえんだ。そして、その後の世界とは、二度と鐘の鳴らなくなった世界にほかならない。

中島一夫