大理石の男(アンジェイ・ワイダ) その2

 このストから「連帯」結成までが、続く『鉄の男』の主題であり、そこではアグニェシカが、グダンスク造船所で出会ったビルトークの息子「マチェック」(言うまでもなく、『灰とダイヤモンド』の主人公と同じ名)と結婚、しかも彼はストライキの指導者という設定なのだ。ワイダが、無数のマチェックと無数のアグニェシカとのヤンガー・ゼネレーションの結びつきこそが、ワレサ「連帯」を生み出していったと見ていることは明らかだろう。

 先に見たように、『地下水道』や『灰とダイヤモンド』の時点では、ヤンガー・ゼネレーションを肯定していた武井は、だがその帰結としての「連帯」を終始否定していくことになる。武井理論とも言われる「層としての学生運動」を掲げ、全学連の初代委員長にも輝いた武井は、ある意味で反スターリン主義のヤンガー・ゼネレーションの筆頭格だったはずだ。なぜ、その武井が「連帯」に否定的になっていったのか。

 その要因のひとつが、あの『地下水道』から『灰とダイヤモンド』の評価に見られる、花田との緊張関係があったように思えてならない。たとえば、花田の次の一言を、武井はどのように聞いたのだろうか。

たとえばあなたと終戦後始めて合った頃、新しい人間像が出て来たということをあなたは強調し、僕はそれに対して否定的だったわけです。そういうものが戦後、とくにこの四、五年の間に、だいぶハッキリしてきているわけです。たとえば君なんかでもその一つのタイプだと思うんですけれどね。


 知られるように、もともと花田の「ヤンガー・ゼネレーション」という言葉は、吉本隆明に向けられたものだった(「ヤンガー・ゼネレーシュンへ」)。これが花田―吉本論争の火ぶたを切って落とすことにもなった。

 そして、その後の吉本が、ヨーロッパの反核運動を、ポーランド「連帯」を弾圧するソ連の隠れ蓑だとして、その流れにあった日本の反核をも批判していくことになるのも有名な話だろう(『「反核」異論』)。まさに吉本は、「ヤンガー・ゼネレーション」から「連帯」へ、を体現するかのような、その日本版とも言ってよい思想家だった。

 一方、武井は、花田との厳しいやり取りを、ヤンガー・ゼネレーションに対する切断要請と受け取ったように思われる。実際、花田はあの座談会の端々で、武井をオルグしているのだ。「武井君が『灰とダイヤモンド』を否定し『若い獣』を認めてくれると、統一戦線ができるかもしれないと思う。逆に入るべきだよ」。

 その後武井は、花田の圏域に引き寄せられていった。早速、座談会の翌年の「ニヒリズムの浸蝕」では、ヤンガー・ゼネレーションたる全学連に「ニヒリズムの浸蝕」を見出し批判している。この時点で、吉本との対立も、理論的には決定的になっていたといえよう。スターリン批判の年に『文学者の戦争責任』を共著で出してから、わずか4年後のことである。ことは、単にワイダ作品をめぐる評価の問題にとどまらないのだ。

 花田は、『地下水道』のラストで、隊長が、嘘の報告をしていた記録係を冷徹にも射殺し、せっかく脱出した地上から、もう一度地下に下りていくところに「コミュニストの責任」を見た。それに対して武井は、隊長をコミュニストとは断定できない、「ロンドン派の抵抗部隊かもしれない」と反論した。

 だが、おそらく花田にとっては、隊長がコミュニストであったかどうかは問題ではなかったのではないか。さらに言えば、ワイダ自身がコミュニストであったかどうかさえも。要は、作品にそのような積極的な人間像が描かれているかであり、それを見いだすのが批評だと考えていたのだ(「問題を見つけ出すというのは、クリティックとしての勤めだというふうに考えている。それがなかったら批評なんかやらないんじゃないかな。優れた作品をほめるというのが批評家の任務ではない」)。

 花田は、あの長く暗い「地下水道」の先に、すでにポーランドの分岐点を見ていたのだ。そして、その後のポーランドを、そしてワイダを見れば、やはりそれは正しかったのではないか。花田の批評に、改めて凄みを覚える。

中島一夫