愛、アムール(ミヒャエル・ハネケ)

 夫婦は、ともに老ける。だが、都合よく同時に老けるわけではない。残酷にも、どちらかが早く衰える。子供がいても、別々に暮らしていれば老老介護になるだろう。それからの人生は、途方もなく長く感じられるのかもしれない。「かくも長き人生…」。

 人間の負の部分を「露悪的」とも言われる手法で描いてきたこの監督は、だが決して露悪趣味なのではない。ただ、人が、なるべく見ないで済ませたいと思っていることを、見つめようとしているだけだ。

 80歳の夫婦「ジョルジュ」(ジャン=ルイ・トランティニャン)と「アンヌ」(エマニュエル・リヴァ)。あの『二十四時間の情事』のエマニュエル・リヴァも、もう85歳かと思うと感慨深い。

 冒頭近く、元ピアノ教師の夫婦は、教え子のコンサート会場の客席で、開演を待っている。画面いっぱいに客席が映し出され、「携帯電話の電源をお切りください」とのアナウンスが流れる。映画を見ている観客からすれば、つい先ほど経験した時間が、画面上に再現されているかのようだ。観客は、この夫婦ならずとも、誰にでも起こり得ることとして、これからの出来事を鑑賞=体験することになる。

 翌朝、朝食中のアンヌに異変が起こり、生活は激変する。手術も失敗し、アンヌは右半身麻痺に。以降、作品は、ジョルジュによる献身的な介護の日々と、にもかかわらず確実に病状が悪化して行くアンヌの姿を追う。二人の壮絶な演技のリアリティもさることながら、この作品の静かな感動を支えているのは、密室劇で進行する、そのアパルトマンの部屋の使い方だろう。

 オープニング、消防隊員らが、ガムテープで密閉されたベッドルームの扉を、けたたましく音を立てながらこじ開けて入る。ベッドには、まるで棺桶の中のように、花々に囲まれて横たわっているアンヌの姿が。消防隊員らが、においに表情をゆがませながら、あわてて窓を開けるのを見ると、どうやら死後何日か経過していた様子だ。

 ラスト近くで、このアンヌの姿と、ベッドルームのドアへの細工は、ジョルジュが施したものであることが分かる。「もう終りにしたい」というアンヌの言葉に従い、ジョルジュはすべてに決着をつけ、さかんに病院を拒んだ彼女の意志を汲んで、そのままベッドに「埋葬」したのだろう。

 その後、ジョルジュが手紙を書くシーンが胸を打つ。自らがアンヌにした事を告白するメモか、と思わせるが違う。おそらくは、天国のアンヌに手紙を綴っているのだ。

 すると、窓から鳩が迷い込んでくる。これで二度目だ。ジョルジュは、カーペットをかぶせて鳩を捕まえようと追いたてる。このシーンが長回しで、何ともいえない時間が流れる。「何ともいえない」というのは、直前にすべてに決着をつけたあのシーンと、この鳩に布をかぶせるシーンが、どうしたって重なるからだ。

 ジョルジュは書く。「また逃がして自由にしてやった。そんなに難しくなかったけど、今度はもっとうまくやるよ」。

 不自由な鳩=アンヌを、自由にしてやること。それは悲劇的なことかもしれない。だが、あなたと生きる「今度」の人生は「もっとうまくやるよ」と、あの世で妻に再会できるよう手紙を書く男に、いったいどんな言葉を投げかけることができよう。

 ジョルジュとアンヌにとって、このアパルトマンの部屋は、二人の人生そのものだ(だから最後、この部屋に入ってきた娘のイザベル・ユペールは、部屋を見渡して物想いにふける)。二人にとって人生とは、外から二人でやってきたこの部屋で、ともに過ごし、音楽を奏で、時には踊り(車イスのアンヌとそれを支えるジョルジュは、まるでチークダンスを踊っているようでもある)、その時が来たらともに静かに部屋を出て行く、そういうものであるべきだったろう。

 思えば、すでに映画の初めで、二人がコンサートから帰ってきたあのとき、部屋の鍵が壊れてドアが閉まらなくなっていたのだった。またあるとき、ジョルジュは、部屋の外から誰かに導かれ、水浸しの廊下に立ちすくむ夢にうなされてもいた(しかも、そのとき流れる音楽は、タルコフスキー惑星ソラリス』で、夫が亡き妻と無重力で合一を果たすシーンの音楽だ)。人生の退場口たるこの部屋の扉は、すでに半ば開かれつつあったのだろう。

 ラストシーンが、また味わい深い。アンヌが死んだ家で目覚めたジョルジュが見たのは、流し場で洗い物を終えようとする、あの見慣れたアンヌの姿だ。そして、彼女に導かれるように、彼もまた部屋の外へ出て行くのだ。「コートを着なくていいの?」あの決着のつけ方を、アンヌは怒っていないようだ。手紙が届いたのだろう。

中島一夫