千年の愉楽(若松孝二)

 昨年10月17日の突然の事故死を受けて、この監督の神話化、あるいは安易な神話化に抗うとする「神話化」が、映画界を中心になされている。

 遺作となったこの美し過ぎる作品は、自らの先行きを予見していたかのように、まさに生と死というひたすら繰り返される宿命に翻弄されるほかない人間たちを見つめた作品として、その神話化にさらなる一頁を加えることになるだろう。

 美し「過ぎる」と言ったのはほかでもない、中上健次の原作『千年の愉楽』(以下『千年』)の捉え方として、ある意味で最も避けなければならない捉え方を、この若松作品は示していたと思われるからだ。

 冒頭、断崖絶壁の谷底からもやが立ちのぼり空へと吸い込まれていく。急な斜面に小さな家々が所狭しと建ち並び、家々を縫うように階段状の路地が巡っている。その路地を、登場人物たちが、さかんに登り降り行き交っていく。

 このような、これ見よがしとも言える画面の垂直性を背景として、「高貴にして澱んだ中本の一統」の血という、主人公たちの血統=縦の連なりという垂直性が、やがて二重写しに映し出されていく。

 その血の連なりを支えているのは、彼ら「中本の一統」だけでなく、この路地の命という命を、このあたりで唯一の産婆として取り上げてきた「オリュウノオバ」(寺島しのぶ)と、その夫で坊主の「礼如」(佐野史郎)だ。物語は、この生と死とをそれぞれ司る夫婦の、記憶=語りの対話によって進行していく。

 映画は、血統の垂直性を支えつつ包摂する生と死の平等性を、「海」の原理として提示するだろう。それを示すように、階段状の路地の向こうに、日が上りまた沈んでいく、営みすべてを包み込むような海が広がる光景が、たびたび映し出されるのだ。

 だが、原作『千年』の世界に海はない。そして、それこそが、初期中上の『岬』(母なる海に突き出たペニス=岬)や、『枯木灘』(路地=海のような母胎)と、この『千年』を隔てる最大のポイントだったはずだ。『千年』は、同時期に書かれた『地の果て 至上の時』とともに、もはや初期作品に見られるオイディプス的な物語が無効化してしまった、ポストヒストリカルな世界を描いていたのだから。

 なるほど、法を侵犯した中本の一統の若者たちが、次々と夭折していくという同型の物語が、6篇繰り返されている『千年』は、一見物語的=反復するものに見える。だからこそ、四方田犬彦『貴種と転生』以来、三島由紀夫豊饒の海』(あるいは『今昔物語』)との比較で物語的=ヒストリカルに語られてもきた。近作で三島を主題化した若松孝二も(『11・25自決の日』)、ひょっとしたら三島との連関で、中上に関心が向かったのかもしれない。

 だが、そうした捉え方は、『千年』や中上文学の軌跡を矮小化することにしかならないだろう。あくまで、『千年』の可能性は、同型の物語の反復に見えて、後半の3編において「路地」が南米へ、北海道へ、外へ外へと広がっていくところにある(ここがその、三島的「反復」からその「乗り越え」への転換点だとばかりに、後半最初の物語は、わざわざ三島そのままの「天人五衰」と題されているのだ)。

 中上が、一貫して「被差別部落」ではなく「路地」と呼んできたことが、ここで効いてくる。それによって、紀州の「路地」の青年たちが、ブエノスアイレスの「路地と同じだというゲットウ」(「天人五衰」)や、北海道アイヌの「コタン=路地」(「カンナカムイの翼」)における被差別者=マイノリティーたちとの連合戦線を模索していく可能性が開けていったのだ。

 そして、原作のラストでは、中本の「達男」になり切って路地へと帰ってきたアイヌの「若い衆」を前にして、オリュウノオバはこうつぶやくのだ。
「一回目の達男の後に二回目の達男があってもよい」。

 この「二回目」は、もはや血統による宿命の反復性ではない。この先の「三回目、四回目、…」へと開かれていく「二回目」であり、血統を超えてつながり得るマイノリティーの連合戦線が、今回の失敗にもかかわらず、今後も繰り返し模索されていくに違いない、そうした方向へと作品を開いていこうとする力強いセリフなのだ。それは、例えば、ベケット『名づけえぬもの』ラストの「続けなくちゃいけない、続けよう」とともに読まれるべき言葉としてある。

 一方、若松『千年』は、原作の後半ではなく、最初の2篇(「半蔵の鳥」、「六道の辻」)を中心として構成されている。ラストの「カンナカムイの翼」は一応出て来るが、北海道アイヌへと路地を拡大しようとする原作の力をまるで押し込めようとするかのように、達男の闘争と死は、寝たきりとなったオリュウノオバの記憶語りによって処理される。

 ここには、かつて「日本赤軍のバックには若松孝二がいるのではないか」、「活動資金をカンパしているんじゃないか」とも囁かれた(それはフィクションだった。足立正生荒井晴彦の対談(「週刊読書人」2012年11月9日号)参照)という、反体制・反権力の若松の姿はない。

 だが、かつて、カンヌ映画祭から対イスラエル最前線へとパレスチナ支援に向かったというあの若松孝二は、まるで中上『千年』の後半3篇の主人公たちのようではないか。

 マイノリティー=路地の連合戦線。その地点で交差する中上と若松を夢想するのは、ない物ねだりだろうか。だが、それこそが本当に、「千年」先へと開かれた「愉楽」というものだろう。

中島一夫