恋の渦(大根仁)

 柳原可奈子のショップ店員の物真似に出て来そうな、若者たちのしぐさや口調。
「あるある」「いるいる」というリアリティがウケているのだろう。映画館は笑いの「渦」だった。ポツドール三浦大輔の原作戯曲を、『モテキ』の大根仁が映画化。「動物化」する若者の生態を観測しているような感覚。

 20代中後半の男五人女四人が、そのうちの一人の男と女をくっつけようと部屋コンを企画し一同に会する。そして解散後、それぞれの部屋に帰ったところからドラマは始まる。

 舞台は、アパートやマンションの四部屋のみ。外のシーンは一切ない。コンパが解散すると、早速お互いに反省会が始まる。

 この設定や展開からも明らかだが、作品は九人のつながりではなく、むしろ「ズレ=分断」を描く。例えば、コンパ会場となった部屋に住む、同棲カップルのコウジとトモコの間では、コンパの間中、一人寂しそうにしていたサトミを、トモコがかまってあげなかった件で言い争いになる。

 コウジはトモコに、今すぐ電話をかけて謝罪すべきだと譲らない。だが、そもそもサトミは、コウジの弟ナオキの彼女で、そのときナオキは近くにいながらゲームに夢中だったのだ。コウジは、自分の彼女を放ったらかしていた弟ではなく、料理やホスト役で忙しくしていたトモコを責めるのである。

 一方、ナオキは、「ステディはサトミ」で揺るぎないものの、彼女がバイトで不在の隙に、先ほどサトミといちゃついていた同じベッドで、カオリと平気で浮気をするような女たらしである。カオリにその行為を指摘されると、「本命はサトミでお前とは浮気。あっちがないと、こっちもないの。俺、これで卒論書くから」と、何とも軽薄で身勝手な恋愛論(心理学を専攻する学生)をぶつのだ。

 こうして見てくると、一見本作では、若者の奔放な「恋の渦」が描かれているようで、きわめて旧態依然とした、男の身勝手な理屈とプライドに、女たちが振り回される(四つの部屋を流動的に移動するのは基本的に女である)さまが見られるだろう(それは、コウジとトモコ、ナオキとサトミやカオリ以外の組み合わせでも、基本的に同様である。例えば、オサムが、肉まんのカラシ一つでユウコを振り回すシーン)。

 「分断」は、彼らが四部屋に分かたれていることもさることながら、部屋と部屋との間をつなぐはずのケータイによっても増幅される。この作品では、男が、電話に出ない女に激しくいらだち、まるでストーカーのように、間髪いれずに何回となく電話を入れるシーンが多々出てくる。

 ナオキとサトミに戻れば、ナオキを全く信用していないサトミは、自分がバイトに出ている最中に、彼がおとなしく一人で部屋で待っているかどうか、写メを送れという。またナオキの方も、帰ってきたサトミに「何でお前の方は写メ送って来ねえの!」と激ギレする始末なのだ。この不毛な相互監視とプライドの応酬。

 こうしてこの作品では、部屋の「内/外」、部屋と部屋の「間」に、ケータイによる相互の監視・管理の包囲網が張り巡らされている。そして、四つの部屋の中に舞台が限定されているために、このことがいやがうえにも強調される。すなわち、「恋の渦」とは、この包囲網の中で、お互いに渦巻きはじめる軋みや疑心暗鬼そのものである。

 だから彼らの部屋は、きわめて息苦しい。思えば、彼らの部屋には窓が見当たらない。彼らは、孤独とさびしさから、ひっきりなしにケータイの電波を飛ばし合うが、それによって酸欠を起こしそうなほどなのだ。脱法ハーブの常用も、そうした息苦しさからだろう。

 流動性と可変性を備えた女たちが、最後男女の権力関係をことごとく覆しにかかるのは、確かに痛快ではあるし、笑える。だが、結局は誰一人、正規社員として就職できていない彼らが、部屋に押し込められたまま、ケータイの電波を「窓(ウィンドウズ)」として、互いに覗き合い、束縛し合うのを余儀なくされているさまは、何ともうすら寒い。

 密室のような四つの部屋に、現代のラーゲリを見てしまったというのは、さすがに言い過ぎだろうか。

中島一夫