ザ・マスター(ポール・トーマス・アンダーソン)

 勢いよく上方へと流れる水流が、画面いっぱいに映し出される。水兵の「フレディ」(ホアキン・フェニックス)の視線は、キョロキョロと定まらない。本作のテーマはこの冒頭のシーンに尽きている。

 監督は言う。「人は何かマスターという存在なしに生きられるか。もしその方法があるなら教えて欲しい。我々誰もがこの世をマスターなしで彷徨えるとは思えないから」(公式HP)。人間という存在は、自ら従属すべきマスター=指導者をいつも上方に探している。

 夏目漱石は「死ぬか、気が違うか、それでなければ宗教に入るか。僕の前途にはこの三つのものしかない」(『行人』)と書いた。アルコール依存症のフレディと、サイエントロジーをモデルとした新興宗教「ザ・コーズ」の「マスター=指導者」(フィリップ・シーモア・ホフマン)との主従関係を描いた本作でいえば、それはさしずめ「鬱か、アルコールか、それでなければ宗教(自己啓発)か」ということになろうか。

 ロシアの小説家、アレクサンドル・ジノヴィエフによれば、ソ連崩壊後のロシア人は、ユートピアの喪失感からアルコールと宗教に走ったという。「飲酒への逃避は、精神的な同族で構成されるセクトに加わるのに似ている」。元共産主義者ロシア正教へ、若者はサイエントロジー、白兄弟団、はたまたオウム真理教へ。ならば、共産主義こそが、宗教やニューエイジ的なものの流入を食い止めていたということか。

 本作は、1950年代以降の主にアメリカを舞台としている。実際、サイエントロジーのマスターであるロン・ハバードが、SF作家から転身し、サイエントロジーの基礎となる技術を確立し、書にまとめていくのもほぼ同時期だ。そういえば、本作のマスターも、フレディが共産主義者か否かを再三確認し、そうでないと分かると「最も勇敢な者よ」と称賛していた。

 だが、本作は宗教映画ではない。エンドロールが語るように、人生は、次から次へと相手が変わる終りのないダンスだ。そして、そうした流動的な「関係」の中で生きざるを得ない以上、人間は確固とした「主体」として生きることを目指し、そのうえでどうしようもなくマスターを探し求めてしまう存在だということ。人間は、そのようにマスターに従属する(subject)ことによって、むしろ明確な主体(subject)となること。冒頭の監督の言葉は、この人間の免れがたい逆説を見つめている。

 第二次大戦の水兵だったフレディは、アルコール依存でセックス依存だ。マスターに出会い「ザ・コーズ」に入信後、その原因(コーズ=cause)は過去のトラウマにあり、それを克服すべくさまざまな教練を課せられる。だが、フレディは、とうとう最後まで帰依しきれない。

 マスターに忠実たろうとしたフレディが、なぜ「解脱」しきれなかったのか。それは、フレディとは、そもそもマスターのネガ的な存在だからにほかならない(フレディは、マスターに出会う前まさにカメラマンだった)。

 刑務所の隣同士で言い合う二人。砂漠で反対方向にバイクを飛ばしていく二人。その他、二人の行動や様子は、明らかに対称的に描かれている。そもそも二人が近づくきっかけになったのが、フレディの作るシンナー入りのカクテルで一緒にラリったことだった。

 フレディによる砂浜でのダッチワイフとの擬似セックスと、マスターによる全裸の女性をはべらせての大饗宴は、まさにネガとポジの関係にあろう。実際、フレディがセックスの相手に、マスター気取りで教練を施す場面もある。

 逆にマスターからすれば、重度の依存症であり、かつどうしても帰依しきれない、信者としては「劣等生」のフレディは、「何とかこいつを救わなければ」と思わせる存在だ。だからこそ妻をはじめ側近がいくら進言しても、ついにフレディを破門には出来ない。決してフレディの作る薬物カクテルだけではない。マスターの方こそ、精神的にもフレディに依存しているのである。

 これは、「奴」の主体を担保する「主=マスター」自身の「主体」は、いったい何が担保するのかという、主と奴の弁証法における根源的な矛盾でもあろう(死の恐怖を乗り越えたために「主人」となる者は、要は死せる存在だということになってしまう)。人間は他者と関係し、しかも全的には対等に関係できない。どちらかが主になり奴になるほかない。そうである以上、この矛盾は、いつまでも人間=関係につきまとうものだ。

 ラスト近くで、教団を離れていくフレディにマスターは言う。「何者にも従属しないお前は、何と自由な存在か。お前は、はじめてマスターなしで生きる人間だ」。背中が丸まり、腰に手を当て、苦しげに歩いて行くフレディの後ろ姿は、果たして、このマスターなしの自由を語っているだろうか。

中島一夫