適切な距離(大江崇允)

 人間はオイディプス、予言的動物である。先行する言葉に、どうしようもなく引きずられ、身も心も振り回される。それが神託ならぬ、肉親の日記であればなおさらだろう(もともと、今作の原作は戯曲だったという)。たとえ、そこに嘘がまじっていても。いや、それが嘘だからこそ。

 「適切な距離」を喪失している二人暮らしの母と息子が、お互いの日記を覗き合い、読み合うことで、それをまた互いの日記に反映させていき、いつしかお互いに新たな「距離」感が生まれる――。

 谷崎潤一郎の『鍵』を彷彿とさせるなじみやすいストーリーは、だがこの監督にとって、あくまで仕掛けにすぎない。息子の日記のパートは黒、母の日記は白の色調で描かれ、やがて互いの日記を読み合う中で色調の境界線もなくなり、混然一体となっていく。そうした、一見分かりやすい映像の移行の中に、だがフィクションとしての言葉と現実との関係=距離に対する、きわめて鋭利で冷徹な洞察が潜んでいるのだ。

 前作『美しい術』からも一貫しているように(だから、『美しい術』のクライマックスシーンが、今作中に挿入されもするのだが)、この監督の関心の根底には、フィクションとしての言葉に翻弄されるほかない人間と人間の関係に、果たして「適切な距離」は存在するのかという、人間存在に宿命的に付きまとう問いがある。

 母親は、意図して嘘の日記を綴っているのではない。言葉が、実体や現実そのものではない以上、どうしようもなくすでに嘘=フィクションなのだ。人間が嘘をつくのは、つきつめれば言葉を持っているからである。

 日記が息子の目につく場所に置かれてあることは、あらかじめそれは読まれる言葉、読まれることを想定し、またそれを望んでいる言葉として書かれている。重要なのは、息子にとって、この状況そのものが、自らの存在の宿命を表していることだ。

 親の後から世界にやってきた子は誰でも、先行する親の言葉の中に生まれ落ちる。自らの出自に関する情報は、すべて親の言葉として与えられる。夏目漱石『道草』ではないが、目の前の親が「本当の親」であることからして、その証明の担保は親の言葉の中にしかない。

 息子が、飲み会で披露する定番の物語たち――「弟は「肉のかたまり」として生まれて死んだ」、「父親が自分ら兄弟に「ゆうじ」「れいじ」で「ゆうれい」と名付けたのは、最大の嫌がらせだ」など――は、彼が事実か否かを確かめようもない内容ばかりだ。

 それらは、親から与えられた言葉でしかないという意味で、どうしようもなくフィクション(嘘)である。だが、同時に、彼自身は、その言葉を運命のようにリアルに生きるほかはない。女子たちを引かせるほどの、息子の過剰に力こぶの入った語り口は、それがいかに彼にとって逃れがたいものであったかを示している。

 そもそも、息子が日記の存在を思い出すのは、その昔「十年後の自分」宛に出した「まだ僕は日記をつけていますか?」という年賀状による。それをきっかり「十年後」の元旦、大学生になっている彼の元へ、忘れずに送り届けたのはいったい誰なのか。それが母親なのだとしたら、最初に息子を日記の言葉に差し向けることからして、母親のさしがねなのである。

 それが「1月1日」、元旦早々に届く年賀状の言葉であることは、この作品=日記がスタートする「第一日目」が、そしてこの作品における「息子」というキャラクターの誕生が、すでに先行する言葉に導かれてあり、すなわち言葉まみれになっていることを示している。

 はじめに言葉ありき。
微温的なタイトルにだまされてはならない。この監督は、「適切な距離」など本当は信じていない。この作品から伝わってくるのは、むしろ先行する言葉の呪縛のもとで、人間は言葉に対して、いつも「不適切な距離」しかとり得ないこと。そして、その距離の中でもがきながら生きるほかない、その痛々しいまでの切実さなのだ。

中島一夫