Mommy(グザヴィエ・ドラン)

 昨年のカンヌ審査員特別賞は、ゴダールとこのドランだった。受賞の際ゴダールはこうコメントした。「カンヌは、若い映画を撮る老いた監督と、古い映画を撮る若い監督をいっしょくたにしたんだ。ドランは映画の形式も古い」。

 もちろん80歳を超えて、あの野心的な3D映画『さらば、愛の言葉よ』を撮ったゴダールにはこう言う資格が十分にあろう。だが、このゴダールとドランの「対立」については、映画にとって俳優の演技とは何かという別なる問題を考えさせられる。

 最近のラジカルなゴダールの映像からは、役者の演技が消えてしまった。一方ドランは、ADHD(注意欠如多動性障害)の息子とその母の愛憎という、ある意味保守的なテーマで、だが圧倒的な俳優の演技によって、2時間半飽きさせずに見させてしまう。言葉と音と映像の「芸術=技術」たる映画の進化にとって、果たして俳優(人間)の演技とは、その残滓にすぎないのだろうか。

 おそらくドラン自身は、自らの映画が、母と子という狭い人間関係しか描いていない、視野の狭いものだということについては自覚的だろう。今作の狭い正方形の画面サイズが、端的にそのことを示している。

 この1対1の正方形は、ADHDの息子「スティーヴ」(アントワーヌ・オリヴィエ・ピロン)と、その母「ダイアン」(アンヌ・ドルヴァル)とが、まさに1対1でずっと対峙していく、その緊張関係を形として表現しているかのようだ。むろん、それはこの親子が、閉塞した母子関係に閉じ込められてあえいでいるとともに、スティーヴが再び施設に送りこまれねばならないことをも示唆していよう。

 冒頭から、母が施設の人間と衝突するように、この親子は、真四角な画面のように杓子定規な法や規則に苦しめられる。もちろん、これは彼らの主観にすぎない。最初にテロップで流れる「S14法」――発達障害児の親が、経済的、心身的な理由から養育を放棄し、施設に入院させることができる権利を保障する――からして架空のものだ(だから、これをカナダの近未来ものとして見ることもできよう)。したがって、四角い画面にも、フィクション上の効果が目論まれていると捉えるべきだろう。

 それを告げるように、この狭く切りつめられた正方形の画面が、作中一度だけ広がる瞬間がある。その一瞬の解放感に、この2時間半の作品は賭けられていると言ってもよい(オアシス「ワンダーウォール」とともに!)。

 このとき、画面には、母とスティーヴのほかに、隣の家に住む女性「カイラ」が収まっていることがとりわけ重要だ。この休職中の教員の存在がなかったら、いつかスティーヴは、そのまま母の首を絞め殺してしまっていたかもしれないのだ。

 いや、カイラはカイラで、夫や娘とも一言二言しか会話がなく、それが原因なのか結果なのかどもりがひどく、ほとんど失語状態なのだ。ところが、スティーヴに勉強を教え、ダイアンと飲みながら破廉恥な話で大笑いするうちに、徐々に生き生きとした生を取り戻していくのである。ワイドスクリーンの解放感は、親子のみならず、またカイラのものでもあっただろう。こうして三人は、お互いに欠如を埋め合うように、いつしか疑似家族を形成していくのだ。

 だが、やはり疑似家族は「疑似」でしかない。すぐに、画面サイズも元に戻ってしまい、かえってその疑似ぶりを強調するだろう。

 それが「疑似」たるゆえんは、そこにさまざまな妄想が入りこんでいることだ。スティーヴが夢見る、ジュリアード音楽院進学も、カラオケの音痴ぶりよって、それが妄想であることがあからさまになってしまう。いや、彼の妄想がダイアン発のもので、おそらくは彼女がその気にさせたものであることは、立派に成長したスティーヴの姿を、彼女が妄想する、ラスト近くのシーンに明らかだろう。

 それを妄想と片づけるに躊躇するほど、このシーンの親子は生き生きとしている。二人は、「こうあったかもしれない」幻の人生を、常に1×1のスクリーンの「影」に切り捨てることで生き抜いてきたのではなかったか。この、「夢=妄想」を、「現実=1×1のスクリーン」の外側に常に感じさせることこそ、このスクリーンサイズのフィクショナルな効果なのだ。

 ラストで、カイラが急に引っ越すことになり、ダイアンに別れを告げにくる。「やっぱり私は家族を捨てられない」。この一言は、ダイアンに幾重もの衝撃を与える。

 カイラは、いくら冷ややかな関係であっても、夫も子供もいるのだから、結局自分には今の家族が捨てられないという意味で言ったのだろう。だが、ダイアンには、自分がスティーヴを、結局は施設に送りこんだことを言外に含んだ言葉として響く。しかも、それはカイラとのいわば共犯で行ったことなのである。ダイアンにすれば、スティーヴとともにカイラとも家族だったはずだ。

 むろんそれは妄想だった。カイラの言葉は、彼女を本物の家族に返さねばならない時が来て、ダイアンを「現実=四角い狭い箱」へと帰らせるものだった。そして今、スティーヴも、四角い狭い箱にいる。再び彼らが、自らを縛り付ける鎖を振りほどいて、その狭いスクリーンから飛び出してくるときは来るだろうか。

中島一夫