映画『立候補』(藤岡利充)

 2011年の大阪府知事選に立候補した泡沫候補たちを追うドキュメンタリーだ。

 本作は、同じく選挙のドキュメンタリーとして、一見『選挙』『選挙2』(想田和弘)に似ているようだが、その実決定的に異なっている。後者が、選挙=代表制民主主義の論理を自明としているのに対して、本作は、最初から泡沫候補にターゲットを絞ることで、蔓延する選挙=代表制民主主義に対する不満や失望を捉え得ているからだ。

 冒頭から、その不満や失望が前景化される。そして、そのような不満や失望を抱いたときの選択肢、「1.家の中でグチる。2.家の外でガナる。3.投票に行く。4.立候補する。5.革命を起こす。」が字幕で示され、「4」だけが残り、その後「する」も消え、そのままタイトルとなる。

 ちょっと遊びのような立ち上がりに見えるが、これによって、今後登場する泡沫候補らによる「立候補」が、まずは代表制民主主義への不満と失望に基づいていること、そのうえで選択された行動であることが明確となる。投票する候補者がいないならば、他人や社会をとやかく言う以前に、まずは自ら立候補するほかない、というわけだ。

 作品においては、どうしてもスマイル党総裁「マック赤坂」のパフォーマンスが目立つ。だが、中には、選挙期間中ほとんど引きこもりのごとく家にいて、一切選挙活動を行わない候補もいる。彼もまた、300万円の供託金を支払って立候補しているのだから、よほどの道楽でもないかぎりは、やはり、あえて立候補という政治参加を選択して行動したということなのだろう。

 登場する泡沫候補らの主張は、いちいち正論だ。曰く、「選挙など多数派の祭りだ。多数決で決めれば多数派が勝つに決まっているだろうが」(外山恒一)、「同じ額の供託金を払っているのだから、有力候補だろうがそうでなかろうが、平等に扱うのが民主主義じゃないか」(マック赤坂)。もはや、まともな民主主義は、泡沫候補にしか存在しないのだ。

 クライマックスは、今まで全く選挙活動に同行しなかった、マック赤坂の息子(貿易会社経営)が、ついに父の演説の応援にやって来た場面だろう。地下街の一角での余興的なスマイルダンスから一転、有力候補の街頭演説になだれ込むというゲリラ戦法に打って出たマックは、だが埋め尽くされた橋下維新や安倍自民の大勢の支持者によって、「帰れ」「帰れ」という罵声の大合唱を浴びる。

 完全にアウェイのなか、群衆に一人敢然と立ち向かっていく息子。「一人じゃ何も言えんのか!お前ら、そんなに威勢がいいなら、あそこに立って何か言ってみろや!」

 その指差す演説台の上で、なぜか高笑いするマック。その哄笑は、一人の力強い支持者を得たからか、はたまた親として息子の成長を見たからか。あるいは、秘書も言うように、あのように高揚した群衆を、まともに受け止めないためのひとつの戦術か。

 実は、この作品は、このような多数派の群衆を映し出したかったのではなかったかとも思う。いったい彼らはどこから湧いて出て来たのか、日の丸を振りながら異様に高揚している姿は、「多数派の祭」そのものである。彼らが、普段は静かに?日常の風景に沈潜していること。

 もちろん、いざ政策を訴えようとすると、「小さな政府を」という借りてきた言葉しか口にし得ないマックは、ラストに見られるように、同じような主張の橋下・松井維新に飲み込まれてしまうほかはない。彼と、例えば外山恒一を、同じ「泡沫候補」という枠で捉えることで、かえって見えなくなってしまうものも多い。

 だが、単純に、あのアウェイのなか、顔を晒してひとりでものが言えるか。行動できるか。「立候補」とは、まずもって、そのことを指している。この、ごく単純なことを個々に問う力が、本作にはある。

中島一夫